2008-06-21
君に幸せを
ねぇ、知ってる? この世の中にある“幸せ”の総量って決まってるんだよ。誰かが幸せになるためにはその分、他の誰かが不幸にならなきゃいけないのさ。
だって考えてみてよ。たとえばある人が大金を手に入れて幸せになったとするでしょう。その影には、十分なお金が得られない不幸を押し付けられている人がいるはず。お金なんて無限にあるわけじゃないんだから。
恋愛だってそう。愛する人のそばにいる幸せを獲得できた人がいたら、そのせいで失恋という不幸を味わう人が必ず出てくる。そして、不幸なライバルが多ければ多いほど、恋人が得られる幸せの価値はどんどんと高くなっていく!
実のところ、僕に言い寄ってくる女は後を絶たない。だけどキッパリと拒絶しているよ。君を幸せにしたいから。彼女らに絶望を与えれば与えるほど、君への僕の愛が尊いものになっていくのをひしひしと感じるんだ。
心を病んだ元恋人が助けを求めてきた時だって、僕は君の存在を理由に一切の接触を拒絶した。彼女は泣いてすがってきたけれど、躊躇なくその手を振り払ってやった。それぐらい君が大切なんだ。
……ああ、心配しないで。本当にそれきり、彼女とは連絡をとっていないよ。とりようがないのさ。そのあと彼女は、自ら命を絶ってしまったんだから。
え? それを知ったとき? 恐ろしかった。恐ろしかったよ。そして同時に安堵した。だって彼女は、人生を終わらせたくなるほどの不幸を背負っていたということじゃないか。もし僕が少しでも彼女に手を差し伸べていたら。少しでも幸せを与えてしまっていたら。そのおぞましい不幸は君に! そう、君に! 襲い掛かっていたかもしれないんだ! そんなことはこの僕が許さない! 僕は! 君に幸せを! この世の全ての幸せを! 他の誰が! 不幸になろうとも! 僕は! 君が! 君さえ幸せなら……!!!!!!!!
だから、お願いだよ。君は、君だけは、僕の事を見捨てないでおくれ。
もし君が離れていってしまったら、弱虫な僕は、きっと他の誰かを愛するようになってしまう。
そうしたら、その新しい恋人を幸せにするために。
君に与えてきたたくさんの幸せを、奪い取らなければいけないのだから。
2008-03-23
歳月
日常 |
明るいリビング、コタツがひとつ。
窓側で新聞を読む夫。
壁側で手紙を書く妻。
会話はない。
夫がお気に入りの俳句コーナーに目を留めた。目を細めてじっくり読みながら、2度3度小さくうなづく。そしておもむろに紙面から顔を上げる。
妻はペンを置き、傍らにある文具箱を開けた。使い込まれた小さなメモ帳と年季が入った万年筆を取り出し、コタツの真ん中に置く。
妻は手紙を書き終え、手帳を見ながら封筒に住所を書き入れる。新しいマンションに住む若い娘夫婦、カタカナだらけの長い住所。案の定書き間違えて、小さくため息をつく。
「…ふぅ。」
夫は新聞に顔を向けたまま左手だけを伸ばし、窓側にあったゴミ箱をスッと壁側に押しやる。
妻は書き損じの封筒を折り曲げ、ゴミ箱にコトンと落とす。
明るいリビング、コタツがひとつ。
窓側で新聞を読む夫。
壁側で手紙を書く妻。
会話はいらない。
2008-03-02
今宵、どこかのバーで。
断片 |
「……だからさ、何でもかんでも横文字で言うのはどうかと思うんだよね、僕は。」
「ふぅん、それが日本語の乱れを引き起こしている、と。」
「そう。大体、大抵のものは日本語でちゃんと表現できるんだから。」
「あらそう? じゃ、これは?『カクテル』。」
「えと、『合わせ酒』。」
「なんかいきなりオヤジくさいわね。」
「いやいや、職人技が必要そうなあたり、的確な表現だと思うね。」
「はいはい。じゃ、『レモン』は?」
「英語じゃない!」
「違う、漢字で書けるから日本語だ。」
「へぇ。じゃ、『ライム』は?」
「もちろん、『緑色檸檬』。」
「強引ねぇ!」
「そんなことないってば。」
「それじゃ、『マスター』は? ……あ、スプモーニください。」
「『ご主人』。……僕は『しょっぱい犬』で。」
「ちょっと!!」
(かしこまりました。)
「マスターも普通に注文受けないでよ! ていうかあなた、日本語にしやすいカクテル選んだでしょ。」
「わかった?」
「だって、付き合いだしてから一回もソルティドックなんて呑んだことないじゃない。」
「そうだっけ?」
「そうよ。この3年間、一度も。」
「もう3年か……早いもんだね。」
「ほんと。でも、あなたといると飽きないわ。」
「それは僕もだけど。」
「ふふ、ありがと。じゃあさ、『合コン』は?」
「『合同懇親会』。」
「うわ、一気にマジメっぽい。でも、合コンで出会いました、っていうより聞こえがいいわね。」
「そうそう、君のご両親にも安心して言える。」
「調子がいいんだから。じゃあそうね、『プロポーズ』は?」
「……『結婚しよう』。」
「それはプロポーズの言葉じゃない! 普通は『求婚』でしょう?」
「いや、そうだけど、だから。」
彼の手が私の手に重なる。真っ直ぐに覗き込んでくる瞳。マスターが静かに一歩下がって、視界の端から消えた。
「結婚、しよう。」