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2007-09-10

対象の設定について

| 12:50 | 対象の設定について - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 対象の設定について - 論理兵站 対象の設定について - 論理兵站 のブックマークコメント

前提:どうせ創作が銭にならないなら

飛躍:大きな層へのアプローチにこだわらなくてもよくないですか

理由:はてなグループ程度の集団で別々に育っていったほうが多様性が確保できるかもしれない

結論:blogでdo

ケータイ小説について

| 01:34 | ケータイ小説について - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - ケータイ小説について - 論理兵站 ケータイ小説について - 論理兵站 のブックマークコメント

ケータイ小説*1について考えてたことを書きます。

ふだんぼくが読んでるブログ創作をしている人が書いてるものが多い。みんな誰もケータイ小説を叩いたりしていないんだけど、じゃあめちゃくちゃ読みまくって褒めてるかっつうとそういうこともなくて、この微妙な雰囲気を数年後のためにちょっと保存しておこうかなという試みでもあります。数年後はディスプレイのサイズとか通信速度が変わってるだろうから、すでにケータイ小説が変質しているだろうけれども、それだけにメモしておこうと。

資料に当たらず印象で書きますので、それ事実と違うんじゃない? みたいなことがありましたらお願いします。ぼくのために。


ケータイ小説についてよく言われるのは次の二点でしょうか。

  1. すげえ流行ってるよ若者文化だよ
  2. 内容がつまらないよ日本語じゃねえよ

1番と2番の主張は、それぞれ利益を異にする二者が、拡声器をつかって声高に叫んでいます。今はしらないけど、2年くらい前は、そんな印象だった。

1番は、商売にしたい人が話を大きくしているので困ります。現在ケータイ小説のすげえポイントは、泣ける! とか、渋谷若者リアル! とか、そういうことじゃないだろと。売るための文句がバイアスとしてかかっているので、それをさっぴかなくてはいけない。べつに渋谷堕胎する話じゃなくてもいいのに、売れ線を追求するためにそういうのが要求されたって弊害があります*2。元祖のアレの影響が大きくて、そっち方面のフォロワーが多かったというのももちろんあると思いますが。1番目の主張は読者本位じゃなくて、売る側の都合です。だからケータイ小説の読者は、宣伝文句に対して、売り方に対して怒ってもよかった。本来得られたはずの多様性を得られなかったわけだから。

2番目の指摘は、既存の小説を保存する会の面々が言ってました。事実ケータイ小説は、ぼくの目から見てもおもしろいと感じる内容がないのが困ります。あんま読んでないですけど。ですが、下のほうで触れますけれども、ケータイ小説が近代の小説を余裕でシカトしているとすると、既存の文壇様のご意見としては「てめ純文学売れてねえのにおれらの100年の歴史を知りもせず売れやがって」みたいな嫉妬がバイアスとしてかかりますから、そのへんを考慮しないといけない。ケータイ小説は既存の小説を知らないばっかりに結果的にシカトしてしまうことになったのですが、そのことがおもしろくないので、まず完全無視。でも「あれってどうなの」って聞かれるから目を通すみたいな。たしかにつまらんものは指摘するべきですが、つまらないことがイコール今後の可能性ゼロって印象操作にもっていかれないよう注意です。作家様や既存の文芸に携わる方々は「あんな環境俺様の文章を読んで欲しくない」みたいなこと平気で言うんですよ。書籍の文字組みとか、対象の読者とか、想定される環境に合わせて書くことが普通じゃないんですね。2年前の状況で申し訳ないですが、ちょっとだけ携帯電話フォーマットで、文庫として出てる小説を読んでもらいましょうみたいな試みがあったように記憶してます。現場の人は苦労したと思うのですが、本気で読みやすさを追求するとか、そういう読者のための配慮はあったのだろうか。資本家は、それだけの人員を割かず、とりあえず唾つけとくかって感じでやってたのじゃないかしら。商売の布石としてやってみたよ的な。これでは実質の作業をした人も、文章そのものも、携帯電話メディアも、読者も、誰も幸せになれない。このブルジョアめ。

そもそも、ぼくをふくめたおじさんたちは、文章を読む能力というか読み方が、既存の小説のほうに影響を受けてます。こういう天狗になってる人々と同類なんだってことを、小説受け手と作り手の個人個人が悪いんじゃないんだけど、反省したほうがいいのかなとか思いました。ケータイ小説言語がわからない人は、それだけに、2番目の主張に潜む罠には、目を光らせないといかんなーと思います。この主張は誰かが言ってるものじゃなくて、場が言わせてるものなんじゃないかとにらんでます。

1番2番ともに、適当なことを言ってる。売る側の多くが、創作に対して本気じゃねえっつうのが、ケータイ小説がいつまでたっても色眼鏡で見られる原因なんじゃないかと。たしかにケータイ小説の内容にしても、ぼくには理解できないものが多いですが、でも大勢が読んでいるのなら、それをもっと評論とかすべきです。だってわかりたいですもの。ぼくが読んだことないだけかもしれないですが、たぶんヒット商品のわりには評論が少ないですよね*3。売れるからすげえ的なバンザイ文章と、内容が小説的でなくてよくわからないねというのと、そんなのばっかり見かけます。


売春妊娠ホスト、ガシッバキッボコッ(超うろおぼえ)でオヤジがヒーヒー言うとか、ケータイ小説の具材が似通っているならば神話とか民話みたいなものだろうと、じゃあ要素ぶったぎって物語の原型で説明できるんじゃないかと考えていたら paraselene さんがすごそうな着目をなさっていました。

つまり携帯小説は伝奇小説であって - end-of-scan

同じ要素が別の話者から繰り返し繰り返し立ち現れてくる、しかもちょっとずつ変わっていく、というところで、囲炉裏でおばあちゃんが語る民話的なにおいがするなあと思うので、なんとなく paraselene さんの考え方の先に何かあるような気がしてなりません。

落語だって歌舞伎だって同じ話のアレンジをちょっとずつ変えてずーっと演じるものなんで、「つねに新しいことやらなくちゃやらなくちゃ」っていう考え方は、わりと限定された状況でのみ通用する制約だったりするのだと思います*4 *5 *6 *7 *8。すごい適当に言っちゃうけど、ケータイ小説のひとつひとつは別個の創作じゃなくて、ひとつの演目をさまざまな演者が演じているんじゃないかというふうに、むりやり考えてみたりすると、じゃあ話を作ることとアレンジを加えて演じることの差はどんくらいあるのよ? というふうなことにもなりかねない。

で、みなさんのほうがお詳しいとは思いますが、音楽サンプリングメインストリームの手法になったり、まんがの二次創作が銭になるという認識なんかがあって、完全なオリジナルなどありえないという考え方も「まあそういう考え方もあるよねえ」くらいに浸透してきたりしてきたと。単に昔に戻っただけなんじゃないかと。そういうことをみなさんおっしゃっていますよね。知らないけど。ぼくは「そういうことにしたい派」なんで。

ケータイ小説は近代の小説とは関わりが薄そうなんだけど、どうやら人類の為す創作という意味では、そんなに珍しいものではなさそうだなあと、extramegane は、このごろ感じているわけです。読んでないけど。

鍵括弧にオノマトペが入ってるとか、なんでこの人物紹介のキャプションから冒頭のシーンへシームレスでつながってんのとか、技巧の面ではすげえ楽ませてもらってる。そういう実験を数十万部の書籍でやってるとか、ほんと痛快だからもっとやってほしい。


ケータイ小説の、インターフェイスとかの特徴について挙げます。

まずハイパーリンクですよね。ザッピングとかできる。これはすでにやられた。音を出すのとかもあるのかな。あと、怖いシーンでとつぜんバイブレーターが動くとか大御所がどっかで言ってた。アイデアは出てくるのですが、携帯電話ケータイ小説を読むための専用機じゃないから、ブラウジングが快適じゃないので、ここはまだ未開の地と考えてよろしいのではないか。そして、ここはどう進化するかわからんので考えてもしかたない部分ではあります。

あと、バックライトがついているので暗いところで読める。これによって、中学生男子中学生女子が夜中に布団の中でドキドキしながら読むというアウトプットを想定することができます。けだるい美人 OL本屋で買えない種類のアレアレするとか。

で、携帯電話ディスプレイで読まれる。小さいので文字数が制限される。だいたい数十文字で改行しなくちゃです、と言われているようです。この文章みたく一文をだらだらつなげてしまうと、ページをまたいじゃうから読みにくい。読みにくいということは読まれないということです。

ざっとこんな制約があるんですよ? 制約ですよ? 制約を与えられて、それに沿った創作をしたくならないやつは、創作者として、どっかおかしいと思わざるを得ない。インポテンツです。挿入できるかどうかはわかんねえけどとりあえず入れるつもりになってみないとダメなんじゃないの。と、以前思いました。いまは、文壇先生方、みなさんチャレンジしてることと思います。知らないけど。


「画面がちっちゃいから、みんなでいるときに読むんじゃなくて、ひとりの時間に読むんだね」っていう傾向があるなら、ひとりのときに読んでほしいホラーを書こうとかさ。「だったら逆にむりやりみんなで顔をくっつけて読んでもらうことを想定した、上下左右の向きに文字がデザインされている何か」を作ろうとか、そういうことを考えるのって楽しいじゃないですか。

そこに戦場があるならとりあえず兵隊は突っ込めばいいのに、と思うのです。勝手に城を建ててワーワーすればいい。

形式に則った本格ケータイ小説を書いてみたいものです。日本語めちゃくちゃで辻褄が合ってないやつ。実はホストクローン人間。なんか100人くらいうじゃうじゃ出てくる。いやー書いてみたい。しかし読みたくないね。だって画面小さくて嫌なんだもん。

*1:べつに表記にこだわりはないですが漢字携帯小説って書いてしまうと文庫本も含んじゃうじゃね? とか思ってとりあえずカタカナにしておきます

*2:有名なケータイ小説の、元祖っていっていいのかわからないけどあの作品や続編は、出版社うまみが少なかったらしいんですね。どうしたって売れるものだから、出版社は立場が弱かった。作者にとっては流通さえしてくれれば出版社なんてどこでもいいわけです。だからこそ代替品として他社が渋谷ガングロ系の類似作品をたくさん出版しようって作戦があったんじゃないかなーって、根拠なく夢想したりしなかったりしていますよ。夢ですけど。そう考えると、あの作品が広まっていった過程にも、やっぱりヒントがあるのでしょう。作者自身が作品を有名にしていった経緯をどっかで読んだのだけど、努力家だなーと思いました

*3:きっと読者はレビューをしているんだろうけども、おっさんの読める言語のやつがほしいのです

*4:もちろん古典の芸能が毎回同じことやってるって言ってんじゃないですよ

*5ケータイ小説の要素が似通っていることについて、形式が存在するのだと考えれば伝統芸能として解釈できるだろうし、主題に対する変奏が繰り返されるっていうふうに考えれば複数人で創作する交響曲とかミニマルミュージックとかに例えることもできんじゃないのーとか思うわけです。もしかすると「ケータイ小説は個々に意味を持たず全体がひとまとまりの何か」だという可能性もありますが

*6:そもそもパロディ的な創作をしようと思ったらサンプリングするのが当然の発想として出てくるので、極論もし創作本位で考えるなら、現行法が合ってない

*7:そもそも源氏物語の昔からサンプリングはあったと聞きますし、源氏物語の後ろのほうは誰か知らない人が書いた後日談だって言うじゃないですか。まったくファックきわまりない日本最古のレディコミですね

*8:独自のものを作らなくちゃいけないという強迫観念は、コンテンツを売るときには著作権に従おうねってみんなの意識ができてきたことと関係あるのかなー。時代的に