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2009-05-17

報告書2

| 03:43 | 報告書2 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 報告書2 - 論理兵站 報告書2 - 論理兵站 のブックマークコメント

日本の駅前には全裸の銅像があって、それに対して「不謹慎だ!」という声もあまりなく、みんなはそれに無関心です。

駅前のロータリーとか、ぐるぐる回るタクシーとか、鳩とか、ミスタードーナツの店舗とか、全裸の銅像はそういう要素と渾然一体となって日本の風景をつくっています。

慣れてしまって、慣れてというか、無意識のうちに、なにも考えることなく受け入れています、全裸の銅像が視界に入ったとき、誰かが何かを考えるということは、ほぼない。


思考の放棄。


どうして裸なのか、どうしてそこに銅像を置く必要があるのかは、誰にもわかりません。

そのタイトルが『太陽』とか『そよかぜ』とか『春のささやき』などである必然性もまったくわかりません。

必要はわからないけど、そこにある理由を想像することくらいはできます。

市会議員がヨーロッパでその町を象徴する銅像を見たから、文化的事業の予算がついたから、たまたま郷土出身の彫刻家がいたから、銅像といえば裸なのは間違っちゃいないから。

全裸の銅像を見て「全裸じゃん」って指摘するのは、子供のすることだから、誰もしない。文化的な生活を送る大人は芸術を解すことになっているので銅像が局部をモロ出しにしていることについてなにも言わない。なにも言わないことが常識になるから、子供もそういうものだと思う。

最初はそんな理由だったものが、だんだん形骸化していきます。

あるいは道祖神なんか性器そのものの象徴だったりするので日本の風景に全裸の像があることは普通なのかもしれない。

そしてオリジナルを忘れていく。新しく建てられた銅像はヨーロッパの模倣ではなく、「なんとなく建っている日本の駅前の全裸の銅像」の模倣になっていく。いつのまにか駅前に銅像が建つ理由は、「隣の町が銅像を建てていたから」でしかなくなってくる。

ヨーロッパの村や町に建っている銅像は、地域にゆかりのある聖人だったり歴史上の英雄だったりするのかもしれないけれど、形骸を輸入し、輸入された形骸は形骸として、どういうわけか勝手に発展していったりする。


思考の放棄。


誰の思考にもよらず、なんとなくそこに存在する銅像は、意味を失い、純粋な物体になります、そもそも日本の景観はこういうものが多い、歴史的建築を残そうというヨーロッパ的な発想がほとんどないから、ビルは無秩序に建っていく、デザインの統一もなく勝手に建っていく、日本の都市は見渡す限り、地平線まで延々とそんな感じだ、電車で移動してもずーっとそんな感じだ。

新宿歌舞伎町や秋葉原の雑然とした町並み、どぎつい色彩の看板、外国人観光客はわざわざそれを見物しにくる、写真を撮りまくる。

それは人工物でありながら自然物といえる、たとえばジャングル、極相林、人間がなにも考えずに作り出したものは、人間の手がまったく加わっていない自然の森と相似形をなす。


思考の放棄はおもしろい。


駅前の全裸の銅像とかね、もう最高。一度気づいてしまうと、もうたまらない。

予算の消化とか人間関係のしがらみとかで、誰もなにも考えてないのに、なんとなく設置される。

芸術作品が存在することはその町の文化レベルを表すものなどではなく、単なる無意識の表出になっている、地方自治体に所属する人間の無意識の集合が駅前の全裸銅像をニョキニョキと生やしていると考えると、これこそがアートなのだと全裸で叫んで走り出したくなるほどだ、もちろん駅前で!

ヒップホップの歴史を放置して形骸だけ輸入し「そういうもの」として独自に発展させていく過程でブラックミュージックとまったく関係ないものになっていったり日焼けサロンが儲かったりする現象と同じように、意味を持たず、意味からかけ離れたレベルに達する、それは非常に興味深い。

思考を放棄すると形骸が伝統になっていく。見方によってそれは強烈な皮肉になっていて、作者が自覚しているパロディよりも力強い。ルーツから離れたところで「それ」は「それそのもの」であろうとする。もはやコンテクストから断絶している。

ここまで前提。

たとえば文芸同人誌を印刷しようとしたとき。

思考を放棄してみる。

ほんとうに印刷しなくちゃダメなのか? そんなことは考えない。考えてはいけない。

この版型でいいのか? そんなことは考えない。

文庫サイズカバーつきのパックがあるから、それにする。それを選択する。思考は不要だ。

そもそも文庫本の歴史とはどのようなものなのか? そんなことは考えない。

この内容は、持ち歩いて読むような類のものなのか? そんなことは考えない。

この内容の小説を文庫サイズの同人誌にすることで、その本自体がどのようなメッセージを発するか? そんなことは考えない。

「そんなことどうでもいいじゃん」ですらない。

メディアを選択する際に、そういった諸問題が常に発生していることなど、まったく関係ないのだ。

作者は、編集者は、考えて考え抜いて形式を選択するのではない。そういうものだから模倣するだけなのだ。

まるで伝統であるかのように、ただの形骸が大きな顔をして、当然のごとく、常識と化している。

物体としての本だけではない。ハード面だけではない。内容を、ソフト面の制作においても、同じようなことが起きている。

文学を模倣し、文学にありがちなテーマを流用し、作者が文学的だと感じている語彙を使用し、まるで文学らしい体裁を整えた作品は、もやは文学ですらないのかもしれないが、アカデミズムに対する痛烈な皮肉であるようにも見えてくる。

先達のファンタジーの道具立てだけを利用し、ファンタジーのように見えるまったく別のものを完成させる。

ライトノベルを模倣し、ライトノベルの模倣をしているうちに、なんだかよくわからないものになっていく。

洞察をせず自覚なしにできあがっていく二次創作はだんだん二次創作ではなくなっていく。

だんだん何をしたいのかわからなくなっていく。そして独自の評価基準が発生する。

そうした商品が大量に並んでいる状態は、たしかに愉快だ。痛快このうえない。背筋がぞくぞくする。

誰かの牙城を、なにかの権威を、ぶち壊していることだけは確かだ。

自分が「それ」をしようとは思わない、まるで思いつかない、自分にはその発想は生まれなかったけれど。いや、発想によって同様のことをしても「それ」と同じ境地にはたどりつけない、無意識の表出こそが真の「それ」たりえる。

完敗だ。

ケータイ小説企画『QuickResponse』は、そうしたものに負けていた。

無意識の表出に対して、本気で嫉妬している。悔しいけれど、応援せざるを得ない。

だからみんな「それ」をするといいと思います。

extrameganeextramegane2009/05/17 03:43前のエントリが反感を呼びそうなので猛スピードで逆方向に突進しました。

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