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2009-05-19

印刷のこと

| 22:02 | 印刷のこと - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 印刷のこと - 論理兵站 印刷のこと - 論理兵站 のブックマークコメント

経験から学んだこと

『Tamorization』で印刷したときは、初めてだったし、何度でも通えるようにと近くの印刷所にした。これは気をつけてよかったなーと今でも思ってます。

紙の質とかインクの色とか印刷見本とかファイル開けます?とかあるので印刷屋さん行ったほうがいろいろ早い。往復の交通費とか考えると近いところのほうが結局安いっていう。

タモリ表紙はペイントソフトで作ったカケアミと印刷機が干渉してモアレできるかもよー、みたいなことを言われたので、似たようなことをするときは印刷屋さんにベターな方法を聞くとよい。でっかい網点にすればモアらない。

ところで、アドビのクソ高いソフトが前提の印刷所が多い。インデザの廉価版ほんとほしい。あったらきっと同人誌印刷屋さんも対応してくれるはず。あるいは日本語ネイティブのDTPフリーソフト。

たぶん一般的なこと

  • A5、B5といっても印刷会社ごとに指定するサイズが違うような気がする
    • mm外側まで作っとけ、みたいなところも異なるので印刷屋さんに聞くべき
  • 印刷範囲内にノンブルが必須
    • ファイル名と対応させる
    • ゼロの桁も入れてソートできるようにする
  • フォントのアウトライン化、ラスタライズ
  • レイヤ統合
    • いらないチャンネルやパスは削除
  • 出力見本があるとよい

とにかく会社によって違う可能性があるから一概に正解の形式っていうのはない。

PhotoshopEPS以外認めない!という潔いところもある(これはミスを減らすためにアリだと思うけど本当はファイル作るときに銭のかからない規格がいいよなあ)。

PDF対応のところは思ったより少ない印象。

テンプレートのファイルを配布してるところもあんのかな。あったら便利。トンボとか。

会社によってはダンボールで箱ごと送ってくれるサービスあるんだけど文学フリマの場合は運送会社のセンターだかに前日までに到着みたいな感じなので注意。


M社

  • モノクロ2階調化を推奨
  • 75%のグレーより濃いとほとんどベタに等しい
  • Photoshop(あるいはほかのペイントソフト)
    • EPS
      • 圧縮せずバイナリ形式を選択する
    • TIFF
    • 表紙 350dpiから440dpi
      • (カラーということか?)
    • モノクロ本文 600dpiから1200dpi(TIFF
    • グレースケール本文 350dpiから600dpi(TIFF
    • フォントのレイヤは背景と統合
  • Illustrator
    • EPS
    • トンボ必要
    • Photoshop画像は埋め込まずリンク
  • PDF
    • パックに制限あり、本文のみ
    • 変換ソフトやバージョンなど制限あり
    • 事前に相談が必要
    • 画像解像度は上記Photoshopに準ずる

S社

  • ファイル名
    • 03.psd のような数字でソートできるように
  • Photoshop
    • CMYK 350dpi
    • グレースケール 250dpiから600dpi
      • 写真なら250dpiで問題なし
      • 線の細い漫画原稿は600dpiを推奨
      • グレースケールで1200dpiはやめてください
    • モノクロ2階調 600dpiから1200dpi

K社

  • アドビ最新バージョン対応してない旨の記述あり
  • ぶっちゃけPhotoshopで開けりゃ形式なんでもいいよ
  • カラー原稿Photoshop
    • PSD形式推奨
    • 350dpi
    • CMYKモード
  • カラー原稿Illustrator
    • 複雑なパスとか特殊な機能は避ける
    • Illustrator形式で入稿
      • PDFで開けないことがあるらしい
  • 表紙モノクロ、多色
    • タチキリ3mmから5mm作って
    • 600dpi推奨
    • ファイル名に色名もつけるとわかりやすい
    • 1色刷りのときはグレースケールかモノクロ2階調化
    • 多色刷りのときはCMYKかマルチチャンネル
      • チャンネルごとに画像作成
  • 本文
    • 600dpi
    • タチキリ3mmから5mm作って

C社

  • PDF
    • けっこういろんなソフトのPDF書き出しに対応してくれる会社
  • 解像度
    • CMYK 350dpiまで
    • グレースケール 600dpiまで
    • モノクロ2階調 1200dpiまで

「ネタにマジレス上等」についてあれこれ

| 13:19 | 「ネタにマジレス上等」についてあれこれ - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「ネタにマジレス上等」についてあれこれ - 論理兵站 「ネタにマジレス上等」についてあれこれ - 論理兵站 のブックマークコメント

過去の記事の言及がありました。

たいへん興味深いエントリです。そちらからお越しの方は、もしお暇でしたら以下にリンクしたエントリもあわせてご覧ください。


ファック文芸部全体の考えはわかりませんし、そんなものが存在するとも思えないのですが、わたし個人は、現実(みなさんがいうところの)と虚構のあいだに、明確な境界が存在しないという立場です。

言葉を紡いだとき、結果的に嘘にならなかったためしがない。現実か虚構かの二択で考えるから辛い。限定的な現実の外側に虚構があり、虚構が現実を包含していると考えると楽になる。


またわたしは、虚構が多くの人を救済できると考えています。そう考えて活動しています。送り手が創作によって受け手を救済するのではなく、送り手も受け手も等しく創作によって勝手に救済される。

しかし、社会生活上に虚実の問題をどのようにおとしこむかは、単純で難しい問題です。

言論の自由に制限を受けることは理不尽ではありますが、歴史上しばしばみられることであり、わたし自身は不思議を感じません。

表現行動が違法になったとしても、みなさんは自身がやりたいことをやればいい。イメージの表出が誰かを傷つけたとき、イメージの表出をおこなった誰かを罰する世の中であっても、やりたいことをやればいい。

もしできなくなるならば、それはやりたいことではなかったのかもしれません。

相当やりにくくなることが予想されますが、制約を与えられて燃えない創作者なんかいるはずがありませんから*1

現時点のこの社会に真の意味での表現の自由が存在しているかと自問したとき、わたしは否とこたえます。どの時代のどんな社会でもおそらく、表現の自由が保障されたことなどないし、いままでに完全に実現したことなどないでしょう。


ところで、昨日の自分を裏切ってでも*2、考えを更新していくのはおかしいことではないですよね。

レッツ朝令暮改。明日には違うことを言おう。

報告書2のつづき

| 00:02 | 報告書2のつづき - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 報告書2のつづき - 論理兵站 報告書2のつづき - 論理兵站 のブックマークコメント

前回のあらすじ。

思考の放棄を称揚し、駅前全裸銅像を肯定した。


しかし、思考せずに制作された理想的な作品なんてほとんどないですよ。直前のエントリの最後の段は、ご想像のとおりおおかた皮肉です。

「こっちのほうがかっこいいかと思って」のような色気が出るとダメになる。「こっちのほうが売れるかと思って」とか。

少々、屈折している気はします。たとえば、「売れ線だから」という発言は、じつは「やりたいことが陳腐なのは恥ずかしいからとりあえず別の理由を口に出しておくか」かもしれません。

それでも同じです。わざわざ作品外で弁解や正当化をするような創作は、作中での説明が不足している。あるいは作者の覚悟が足りない。

駅前全裸銅像は作品外の情報を読まないことによって初めて素晴らしさが味わえるものだというのに。


駅前全裸銅像は狙ってできるものではなさそうです。

考えずになにかをなせる人間は、そうそういません。思考を放棄できるのは禅の大家かゾンビくらいのものです。

どうしても俗なる人間のやることには意図が混入してしまう。あるいは感情。メッセージ。

なにかを考えた時点で、あるいは情動をこめた時点で、被造物は前述の理想の状態からは、大きくかけ離れてしまう。

どうしてこういう形のものができあがったのか推理できてしまう。

たとえば、既存のメジャーに対する憧れを主な動機として制作されたであろう作品。卒業制作だったり、賞狙いだったり、誰かに評価されようという下心が透けて見える作品。作者本人を慰撫することが目的の作品。

前々回に触れた、詐欺に遭うようなケースの多くは、そういう心理にもとづくものなのだろうと感じる、感じさせられる。まったく悲しむべきことです。

そして他人事では済まない。

私もまた、憎しみから離れられないがゆえに、同じ陥穽にとらわれている。

ルサンチマンによってなにかを作るのは快いことではあるが、制作活動が状況に支配されていることに変わりはない。

憧れではないにせよ、憎しみによって、いたずら心によって、それをなしたのであれば同じ穴の狢。1回ひねってあるだけ。詐欺には遭わないかもしれないが性質の悪さではいい勝負だ。


色気があったらあったで気色悪さを感じて遠ざけたくなるし、なかったらなかったで誰も見向きしないから広まらず観測しにくい。商業的なコンテンツであるのにもかかわらず諸々の事情でヤバいことになってるやつのほうが、まだ人目につくからおもしろがれる。このあたりアマチュアは損です。欠点の指摘すらしてもらえないのです。

駅前全裸銅像は公的なものだから嫌でも市民の視界に入るのにあまりにもありふれていて無視されてしまうという消費のされ方まで含めておもしろいのに、同人誌なんかはこういう構造になることがそもそもむずかしいわけです。

意図しないことが素晴らしいといっても、意図しておきながら意図していないことを装っている作品は見ていられない。

「そんなことどうでもよくなってる状態」は楽しいですが、怠惰によっての、議論を忌避するための、うやむやにするための、ごまかしの「そんなことどうでもいいじゃん」という発言は、私の利益を、全体の楽しさを減少させる敵対者でしかない。

まだまだ悪しき「そんなことどうでもいいじゃん」が幅を利かせています。

私は駅前全裸銅像のまがいものを買うことはできません(駅前全裸銅像は野の花と同じように環境ごと購入して所有してしまうと魅力がなくなってしまうということもありますが、それは別の話です)。


駅前全裸銅像のような無意識の表出は望んで得られるものではないし、望んだ制作された駅前全裸銅像は望まれた時点で理想の完成形からはすでに変質してしまう。逃げ水のようなものです。

理が勝ちすぎる。情が強すぎる。意が邪魔をする。圧倒的な狂気を武器にでもしないかぎり。

社会には情報が溢れています、人間は日々、その奔流に晒されながら暮らしています。

自分のやったことは、はたしてやりたかったことなのか。

環境から、状況から、時代から、潮流から、圧力を受けてやらされたにすぎないのか。

主体をとりまく空気が、主体の心にやりたい気持ちを発生させただけなのか。

うずまくコンテクストが、準拠枠が、創作者が歴史から独立することを許さない。

やりたかったことなのか、やらされたことなのか。

すでにここまでくると、作業は快楽ですらありません。たとえ苦痛であることが明らかであってもいつのまにか手が動いている、創作とはそういうものなのかもしれません。

みなさんはすでにご存知ですが、創作は苦痛をも伴っています。

自らが状況に創作させられていると、背後にあるなにか形容しがたい存在のメディウムであると幻視しても不思議ではない。

やりたいこととやらされていることの区別がつかなくなっていく。

おそらくどちらでもありうる、不可分なものなのだと思います。

そこで、こう捉えてみてはどうだろうか。こう考えることはできないだろうか。

実現できてしまったことは、おそらくやりたかったことなのだ。

中断しなかったのは、やり遂げたかったからだ。

正義感や、崇高な文学的意図や、神の意思や、社会的な義務感など、どんなにクソな薄っぺらな動機でもいい、こうなったらやりたいことをやるしかない。

どうせやりたいことしか実現できない。


環境からの圧力で作者が媒体となり創作する。

なぜ自分なのかと理由を問うことに意味があるかどうかはわからない。

ただ、そのことが実現できる環境にある人物は、さほど多くはない(しばしば先を越されて悔しい思いをすることはある)。

なにができるか。いままでの経験に由来することだ。まったく同じ経験を経てきた人間は自分のほかに皆無だし、似たような経験を経ているからといって出力の形はそれぞれ異なる。

その作者にだけできること、それは確かにある。

自分にだけ作ることができるコンテンツは、自分自身を第一の観客と想定して作られる。

自分が関わったものがおもしろいのは、内輪受け、楽屋を知っているからの補正だけとは限りません。

自分をとりまく状況が、つまり自分が持っている過去の経験がある創作を行わせたと考えれば、自分が関わったコンテンツはまさに自分用に編集されていると言えるから。

作者は作者自身を対象に含めず創作することができない。


自分の関わったものがいちばんおもしろいわ。

そう思うことは悪いことではないはずです。

実現してしまったことが、やりたかったことなのだとすれば。

では、いちばんおもしろいはずなのに、見てもらえないのは、注目してもらえないのはなぜなのか。

他者は自分ではないから。自分の経験を他者と共有できないから。作品の説明ができていないから。

作者は成長していきます。

たとえばここで「宣伝が足りない」と判断して、間違った方向に頑張っちゃう人もいる、内実がともなっていないのに誇大にアピールし、結果的に嘘の広告になってしまう場合もある。逆に宣伝しないのも全体の利益を考えると困ったことになる。

宣伝ももちろん必要なんですが、そのほかの工夫も、まんべんなくバランスよく行うことが肝要。

自分を客観的に見ることができていれば過大評価も過小評価もせずに済むかもしれない。

状況が規定し、それをやるしかないならば、やると決めたならば、それはたぶん正しい、だからこそおもしろいと感じつづけなければ、長い作業を続けることは難しい。どのようなリサーチを行うとしても、最初の鑑賞者は作者本人になるから。


創作するうえで、結果的に主体は、あるひとつの選択肢を採った。

選択しなかった、ほかの可能性を捨てた。なにかを選ぶことは、ほかのなにかを捨てることです。

ある人にとっては誇りかもしれない、別のある人にとっては利益かもしれない、全体の中で自らが生き残るための切実な事情があるかもしれない、あるいは十分な選択肢を用意できぬ発想の貧困さがあったからかもしれない、創作者は、選択します。

ある時点をもって完成とするかどうかの判断も、これに含まれます。これ以上手を加えないことにする選択をしているわけです。

選んだ結果に満足するしかない、満足できない場合は諦める。

ベストを尽くしたのであれば、これはもうしかたない。

ベストを尽くせなかったと自覚するなら、次によりよい創作をやるほかない。

詐欺にも遭えばいいし、混乱すればいい。

環境が許す限りにおいて、やりたいことをやり、その次はやり残したことをやる。

どうせ表面的なところ以外に意味なんかないんだし、受け手に届かなきゃ勝手に捏造される意味すら発生しないし、だいいちあなたはテレパシー能力を持っていないので発表しないと伝わらない。

あなたの環境が、あなたの歴史が、あなたの過去の経験が、現在のあなたに「やれ」と言っている。

*1:佐藤亜紀もそういうことを言いたかったようにわたしは読み取りましたが、ブックマークコメントでは読解力の残念な子が多かったようにお見受けします

*2:昨日の自分は現在の自分自身が作り出した虚構です

extrameganeextramegane2009/05/19 00:02売れるかどうかや僕が買うかどうかは別ですけど。こんなことを考えて作られたものが地方の名士の自伝以上におもしろいわけがありませんから全部なかったことにしてください。うんこうんこー。

y_arimy_arim2009/05/19 16:41注釈二つが興味深かったです。
・「読解力」は、書き手が佐藤亜紀であることに影響を蒙るのか否か。ぼくは「あの佐藤亜紀の発言であることに注意」とブクマで述べていて、これはファ文におけるextramegane氏の理念の正反対かもしれませんね。
・「昨日の自分は現在の自分自身が作り出した虚構です」これは素晴らしい。銘記しておきたいです。(でも『現在』の範囲は?)

extrameganeextramegane2009/05/19 16:58グループ日記のコメント欄は日付ごとなので混乱しますね…。ごめんなさい。
たしかに自分も「佐藤亜紀だから」っていう属人性を気にして読んだところはあります。でも、あの文章だけ独立していてもきちんと読み取ることができるといえばできるのですね。どっちでも構わないのじゃないでしょうか。コンテクストはヒントに過ぎないというか。コンテクストを知っている人にとってはサービス問題になる、というか。
現在の範囲は「時間の最小単位」または「認識、意識できる時間の最小単位」のような気がしているのですが、不勉強なのでよくわかりません。

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