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2009-06-04

みんなのビジョン

| 07:59 | みんなのビジョン - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなのビジョン - 論理兵站 みんなのビジョン - 論理兵站 のブックマークコメント

お返事ありがとう

前々回と前回のエントリは、

ふだんより多めにTwitterのポストからリンクしてもらったので、そこからの人の流れが多かったように感じます。

たしかに、新サービスをホイホイと使っちゃうような人は、こういう話が好きな傾向があるかもしれません。

たかがサービス、たかがツールなんですけど、使ってはじめて体得していく感覚があるのでしょうか。

海のものとも山のものともつかないけれど、とりあえずやってみるというのはいいことだなと感じています。

Tumblrとかモバイルデジタル機器とか。使えば何らかの示唆を受けるものです。


さて今回は、これまでにいただいた「創作文芸のビジョン」への返信エントリをまとめます。

正確にはトラックバックをもらっていないものもあります。

関連する話題を勝手に集めた、と言い換えることもできる。


Webは人のログを集めて人の影を作る

その人というメタで結ばれたデータは柔軟に簡単に抽出、再構成できるようになったらいいな。

(中略)

ああ、これって走馬灯って言うんだっけ。

Webは人のログを集めて人の影を作る

オレはオマエを知りたい

人間を一単位として断片の情報を渡り歩いていくイメージでしょうか。

個人の主観と客観が混ぜ合わさり、誰かの客観とほかの誰かの客観が混ぜ合わさり、人間の多面性を表現するのに適したあり方かもしれないなと思いました。

新しい形式は、そこで記述される文章に、主題を与えることがあるんですね。

断片をどのように串刺しにするかを考えると楽しそうです。


コクピットみたいに。全員が編集者で読者で著者。

あー、この人はここでここの部分書きなおすんだーとか。

データの共有から機会の共有へ。

この項は、技術が送り手と受け手の境界を曖昧にするかもしれないということについて書かれています。

これまでも、批評や創作は、みんなが送り手であり、みんなが受け手で、鎖のようにつながった、不可分なひとつの流れだったんですよね。

改めてそのことに気づかされるのだなと思いました。


リンクっていうのはもう古い気がする。

画面の切り替わりはリンクではなく断絶。

これはもっと詳しく聞いてみたい気がします。

いまこうやってブラウザなりテキストエディタなりを使って作業しているわけですが、この話はもうインターフェイスから異なっているわけですね。

たしかにリンクしないで……、たとえば広大な紙があって、文章や図が点在し、読者は俯瞰したり天地反転させたり拡大縮小したりしながら読むというような感じでしょうか。

身体的な操作法が求められるかもしれません。

紙の本や、現代のブラウザには、実はいつも気にしていないけれど、制約がある。紙の本は面積が限られているし、マウスやキーバインドで操作するブラウザは、どちらかといえば不自由といっていい。

この点を克服できるならば大きな飛躍に違いないと感じました。


あと、僕に理解できるか心もとないですが、引用とリンクで教えていただいたセマンティックウェブについての文書を読もうと思います。


システマー

ゲームをプレイする人とゲームのルールを作る人にたとえ、文芸の形式や手法の革新を説明したエントリーがきました。

 たとえばRPGとかで。あるアイテムや技やキャラクターにカーソルを合わせると、解説として短いフレーバーテキストが読める。そういう断片テキストを適当な関係で大量に読ませて、集合的イメージを想起させる。そうやって何かを表現するのってまさに文芸だと思うんですが、それが文芸と呼ばれることはあまりないようです。

これを文芸と呼ばないとしたら、いったい何でしょう。

僕たちが普通だと感じているこういう文章より、上記引用のような短い情報の積み重ねのほうが、脳内の情報処理に近い気がしないでもありません。いま適当に言いました。

このエントリに対して向けられそうな反論を予想して、僕が勝手に再反論します。


一般的に小説は冒頭から最後の行へ一直線の構造をとりますが、いつもそうだとは限りません。

ゲームブックなどすべての分岐テキストも、夢枕獏の『カエルの死』も、あの『「あたし状態遷移図」、あるいは「あたし約5.2MB」』も、一直線ではありませんがたしかに文芸です。

たとえば音楽は(小説の文字の列と同様に)時間軸を進みます。だから音楽とか戻ったりしない。話のわかるヤツだ。

しかし現代音楽の楽譜が自由闊達であるように、

その直線的な構造を壊そうとする試みは、文芸においてもあっていいはず。

まさか現代音楽が音楽の範疇に入らないという人はいないと思います。

ことほどさように、小説がリニアなものに決まっているだろうという先入観は恐ろしいものです。

普通の紙の本の文芸は狭義の文芸にすぎません。

もし文芸が紙の本に閉じこめられる程度のものならば、巻物や木簡や粘土板の時代に滅びていていたでしょう。あるいは口承文芸の時代に。滅びていないということは、きっと文芸は強い子です。とにかく貴様ら、文芸のヤバさをもっと知るべきだと思います。

さらに、紙の本のいわゆる普通の文芸にあってさえ、直線的に時間が進行していると考えるのは早計です。

詳しくは筒井康隆の『超虚構性からメタフィクションへ』*1や『虚構と現実』*2をお読みください。


こうやって新しい形式の文章を考えることは、すぐさま商売には結びつかないかもしれません。

でも、文芸は必ず商売として成立していなければいけませんか。商売になっていない文芸は数限りなくあるし、たとえ広まらなさそうな形式であれ、そこに挑戦する人間はいていい。銭を生むことだけが価値ではない。

多様性がなくなれば、冒険心がなくなり、既存のジャンル小説の縮小再生産を読み続けることになってしまう。

そんなのはまっぴらごめんです。自覚のない固執を伝統芸能として認めたくなんかありません。

そういうのが好きな方は、どうぞそのままでいてください。その輝きを永遠に保ち続けていてください。檻の中で。


ならば文芸のアーキテクチュアはいつ破壊され得るのか。それは未来永劫起こりえないのか。まさかだろ!!

奇しくも、上で触れた檻やノンリニアな感じについて触れているエントリをさきほどいただきました。

人類は散逸的に与えられた情報を画像的に読み取って脳内で再構築することが可能である。それは超越的な認知を形成し、文章のストーリーだとか公開順序だとかそういう古典的努力の一切を超越したところに未来的な像を結ぶ。

さて、我々は認識の檻の中に生まれ、認識の檻より出ることなく死んでゆくのか。

固定観念というのは恐ろしい、あの人は檻に入っていることを知らず喜んでいるのだ、上で僕もそう書いてしまっていますが、果たして自分が檻に入っていないとも限らない。

後世の人間が見たら、現代の人々って、きっと些細なことにとらわれている哀れな存在に違いないんです。

1990年代序盤はみんなポケベル使ってニコニコしたりドキドキしたりしてたんですよ。公衆電話から片仮名のメッセージを送ったりしていた。

それはそれで詩情があったので全面的に否定できない、むしろ誰かあの感じを再現するようなアートを作ればいいのにとすら思いますが、現代の技術を失ってあの時代に戻ったら辛い。


iTunesとテキスト

自分でこんなこと書いてましたが

iPhoneのつぎのOSiTunesとメモの連携が実現するっぽいですね。


まだまだご意見をお待ちしています

もしまたトラックバックが増えたら、こんな感じで紹介していきたいと思います。

*1:小説のゆくえ(中公文庫)所収

*2:着想の技術(新潮文庫)所収