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2009-06-07

みんなのビジョン4

| 04:50 | みんなのビジョン4 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなのビジョン4 - 論理兵站 みんなのビジョン4 - 論理兵站 のブックマークコメント

お返事ありがとう

みんなウェブで言葉を使った創作とかしてるけど、ほんとにこのままでいいの? 紙の本と変わんなくない? ほしいものは何? みたいな話をする会です。

これまでのあらすじ。


僕たちが今まで何をしたくて何をできなかったのか

ネット上にある創作は、チラチラみて、正直言ってほとんどは、何がおもろいねんの一山いくらの世界です。多様化と聞いて来てみたらこのザマです。

まったくだ。

単純に一番確実に盛り上がるのは、ネットで書かれてるそんなにおもしろくもない創作に対して、ちゃんとした本格的なそれっぽい批評をきちんと色々な人に対してやってくれるお釈迦様のような人の大登場でしょう。

ウェブで創作したり鑑賞したりしている以上、熱意さえあれば可能なんだけど、それは実現していない。

Google の蜘蛛の糸が全部拾ってるはずなんだけど、まだまだ何かが足りない。

これが実現したら、田舎まで道が開通したっていうことになる、それは高速道路ではないけど、必要なインフラなんだと思うのです。

愛です。

最終的には「そのやってる方法がおもしろい」じゃなくて「その文芸なり創作なりがおもしろい」にならないといけません。

肝に銘じます。

これは d:id:setofuumi が触れた話題につながるかもしれないなと思いました。「みんなのビジョン3」を参照してください。

あと、つまんない人が大量にいる状態じゃないと、ニューカマーの数が減っちゃうっていういやらしい問題があるような気もしているんだけど、まあ愛があれば克服できることだと楽観視もできる。


僕たちが今まで何をしたくて何をできなかったのか

これの整理は必要だと思っています。誰かおねがいします。


大体、僕がしたいのはむしろ、書く前の会議みたいなもののような気がします。そこの想像を膨らませる企画会議がしたい。

「なりてえよ、あんたみたいな男になりてえよ」

 のような文章をクリックしたらサクッとした動作で感情こもった台詞が流れるとか

一人が一人の登場人物を担当して書くみたいな面倒くさいこと

こういうやりたいことをたくさん言っておくのはいいと思うのです。

誰か暇な人が作ってくれるかもしれないから。

もし現状で可能なことだって、いまより便利なものを追求することはできる。

ふだんボールペンとか何も考えずに使ってますけど、結構複雑で、誕生当時から比べたらいろんな進歩してる。

それが100円ショップで3本買えたりする。


ツールの具体的な使い方

実例をいっぱい出していこうよという話。

こういう遊びってアレに近いのではないかなと

編集とかブランチとかの行為の実例として。改編的お遊び行為。

誰かの書いた文章を、別の人が注釈したり改編したりしてぜんぜん解釈の違うものにする、という遊び方を、リビジョン管理ツールの具体的な使い方のひとつとして想像していました。だとすれば、リンク先のようなものがその実例になるのかなと。

ツールがあれば「まるごと写してツッコミしまくり」用途にも使えますよね…。全文流用上等の態度も、将来、興るといいなとは。ただ、その先がわからないので考えます。代表例として適するのは、これまででもよく見られた、簡単にできていた種類の遊びでは、ない気がするのです。

ツールをどう扱っても人間の認識/思考のレベルに固定的な限界があるので、脳みそ自体をいじくることができない前提でどこまでツール技術が寄与できるのかという壁がありそうですね。五次元を扱えるツールが生まれても人間は五次元認識できないし、とか。

たとえば待ち合わせするときに正確な場所と時刻を決めないという現代では当たり前の現象が、携帯電話の普及以前の僕には想像できなかったのです。

ツール普及後に起こることは、僕の頭だと、少し考えないとわかんないのです。当たり前だと思っていることを排除できない。

携帯電話の普及で変わったことっていっぱいあると思うんですけど、そういうのをみんなでひとつずつ出し合ったらいいんじゃないかな。


先日から id:masapguin の好意で Redmine というツールをちょこちょこ触らせてもらっているのですが、正直まだよくわかってないです。プログラム書く人の使い方も想像できてない。

そのうちまとまったレポートをするつもりではいます。


具体的になんかツール使って有志で遊んでみて、その試行してみた感覚を報告していくってスタイルで薦めるのがいいんじゃねかなーと思ってる

たとえば TwitterTumblr でもいいと思うんです。Tumblr で何ができると思う?

一応作ってあったのだけど、まだあんまり考えてない。

Tumblr でやってみたいことがある人は教えてください。


先日、Twitter では d:id:sakstyle らによるテストがあった。

TL上に、同時に3つも4つも短編小説が並んでいくという事態になった。

それぞれが別々につながっている話なんだけど、寸断されて交じり合っているっていうのは、なんかいい気分ですよね。

TLに、何本も小説が並行してアップされていけばいいんじゃない?

natsumeの小説とsegawaの小説が混じり合っていくとかさあ

twitter上で小説を書くのだとしたら、単に普通の小説を140字毎に分割してpostしていっても意味がないと思う。

ケータイ小説が、本で読んでも仕方がなくて、ケータイ小説サイトで読まないと意味ないように、twitter小説があるとしたら、それはTL上で読まないといけないようなもの


たとえば泡坂妻夫の本で、袋綴じを開かずにそのまま読んでも通じるし、袋綴じを全部破って読んでも通じるっていう本があった。つまり短い話の部品が、長い文章にも使われているのです。同じ文章が違うイメージになるとかの面白さがある。これはセンテンスの途中で改ページしてたから余計にすごかった。

これって Twitter のタイムラインにある楽しさ、特徴、性質で、あのツールに備わってる機能だと思うわけです。

われわれは別々の世界を生きているんだけど、タイムライン上で混じってる。他人の断片が続々見えるけど、本当のところはそいつが何をしてるか、こっちからはわかんない。

第八回文学フリマの朝、出動前に d:id:sasuke8 とチャットしてて、その模様はこのエントリの後半に記されています。

QuickResponse という計画では、kamatter というミニブログサービスをでっちあげ*1、メールマガジンもやった*2んだけど、そういう意図がありました。


あと、そもそもブログに適した創作って何だったのかなど例を挙げていきたいのですけど。

『和風Wizardry純情派』とか?

詳しい人は教えてください。

ブックマークコメントじゃなくてエントリを起こしてくれたほうがうれしいです。

みんなに説明しなくちゃならないことだし、100文字そこらで説明しきれないでしょうから。


名前、およびブックマークタグ

extramegane氏関連の話題につけるタグを考える。[みんなのメガネ]

extramegane氏関連のアレのタグ名を考える。[extra文芸][エクストリーム文芸][文芸リストラ][文芸解体][再構成文芸]

ここまで広まったので必要だと思うんだけど、どういうのがいいのかはわかんない。

内輪っぽくなくてキャッチーなのにしてください。

できればウェブで創作している人みんなの旗印になってほしい。

けど個別の論議のエントリがいっぱいになるような気もします。


もっと声を上げていい

神話の時代には著作権なんてなかったし、みんな好き勝手に尾ひれ葉ひれ*1つけて話を大きくしてたし、地域によっていろいろ諸説バージョン重なり合ってるのは今から見ると面白いし、「きまった順番に鑑賞する」なんて慣例も当然なかったわけで

「本」という技術が便利すぎたことに一因があるのでしょう。あやふやなで壊れやすい人の記憶に依らず、大量の情報を確実に保存する方法の主役は長らく「本」だったから、「本」という形式に最適化するためのいちばん便利な方式、一直線な読み方/書き方が定着したと。

技術に合わせて文化の方が形を変えていったとも言えるわけです。

現在では、「紙の本」の必要に合わせるためにもたらされた制約を、一度リセットすることができます。

これは非常にわかりやすいです。先日からみんなに意見を聞くときにあんまり考えないで使っていた「文芸」という単語の前提とも言える説明だと思います。

そのうえで、どうしたいかは個々の問題になって、みんな欲しいものが違うのは当然、もちろんそこは多様であってほしいと思ってます。

複数のバージョンが重なり合うような先祖がえりもできるだろうし、その仕組みの「どれが正統で最新かをわかりやすくする」という機能を使って、公文書の制作と管理が楽になっているかもしれない。

全体にとってみればどちらも同じように大切だと思うのです。

そのツールをどのように使うかっていう正解はないんだけど、想像してなかったような応用はできるかもしれない。


まだ続きます

たぶん。みんなが飽きてなければ。

トラックバックください。

アイデア以外、いままで出てきたポイントを整理してくれるとかでも。

*1:技術部長 id:masapguin

*2:技術部長 id:masapguin

kidanakidana2009/06/25 05:51>紙の本と変わんなくない?
文学=紙になったのは活版印刷術の発明&産業革命によって、
鉄道網が全国に引かれて、印刷物が同時に大量に配布可能になって以後です。=自然主義の時代

それ以前の時代はシェークスピアみたいに劇団の座付き脚本家が職業作家だったわけです。
で、自然主義時代以降、二度の大戦以後ですが、映画やラジオやテレビの普及で、活字以外の方法でも国中に情報を配れるようになった。よって、テレビの構成作家のような音声・動画ありの脚本家が再び職業作家としてメインになる。=シェークスピア時代の復活。

影響力で言えば大手活字雑誌(女性自身・ロッキンオン)の部数が30万部ぐらいなのに対して、テレビの全国ネットで視聴率10%なら1200万人が見ている計算になるので、雑誌の40倍の伝達力をテレビは持っている計算になります。
みたいな話を下のメールマガジンで書いています。
http://archive.mag2.com/0000265076/index.html

2009-06-06

みんなのビジョン3-2

| 20:09 | みんなのビジョン3-2 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなのビジョン3-2 - 論理兵站 みんなのビジョン3-2 - 論理兵站 のブックマークコメント

超古代文芸(再)

トラックバックを次々と受けていますが、今エントリでは前回の補足のみをします。

前回、

において、id:nand からもらったトラックバックの解説を1行で済ませてしまい、大変申し訳ないことをしてしまったと反省しています。

  • 準拠枠が異なるので完全に読解できているか自信がなかった
  • まったく触れないのもどうかと思った
  • もし読解したらここ数日で築いた人間関係的なものがぶち壊れるんじゃないかとゴーストがささやいた
  • オチに持っていく気持ちが皆無であったとは言えません

などの理由により、期待されていたであろうラインより低い品質で打ち返してしまいました。

失礼をしたからではなく、そんなもんじゃねー、自分のせいでリンク先の文章は読まなくていいやとか思っちゃう子が出現したかもしれないからそれが悔しい。

ふたたびチャレンジします。

以下の僕の文章が、このリンク先の文章を読むためのヒントになればいいのですが。


華拳繍腿

分岐など華拳繍腿!! と、わたしの中の紫電掌が。

「華拳繍腿」はリンクされているのでわかりますが、「外見は華やかだが実用的ではない武術を指す言葉」。

「わたしの中の」は幻想であることをほのめかしています。でもほのめかしながら殺気をにじませるテクニック。

「紫電掌」は人名。Wikipediaなど調べて、「仲間に裏切られ、死線を彷徨う」、「身近な人間が惨殺されている」、「復讐を誓う」などの情報を入手してイメージを強める。

これらをつなげ合わせると、「分岐するテキストは華やかに見えるが実用的なのかどうかを心の底では疑問視している」というような内容の文章に血の涙をふりかけて叫んでいるといったイメージの言葉だとわかる。

しかし、ここで重要だと思われる要素がある。

人名の原典となるメディアには小説とPCソフトがあり、PCで読める作品はアドベンチャーノベルと銘打たれていて、一切の分岐がないらしい。id:nand はここで分岐のないストーリーを原典として選択している。しかも、分岐が華とされているPCソフトの中では珍しいほう(と言っていいのかわからないけど)の、分岐がないタイプのものをわざわざ選んでいる。つまり例外を。

さらにこの紫電掌なる人物の目的は、どうやらある人物の分断されてしまった人格を収集することであるようだ。分かれてしまったものを統合するニュアンスが、上に引用した一文には含まれている。

id:nand は分岐を求めない、自分が収束させてやる、という強い意志を感じる。

1行読むのにこんだけ時間かかるんですよ。


富永仲基

青空文庫の内藤湖南『大阪の町人學者富永仲基』へのリンクがあります。さりげなく混ぜてある。id:nand はユーモアを解すが、無意味なことは書かない。これははったりではなく、自分で長々と書くのが面倒だからリンクで済ませたと思われる。

富永仲基という人物の概略を調べる。

神・儒・仏三教の成立過程での後代の作為を批判、誠の道を提唱した。

 仲基は続いて『翁の文』を著した。和文でつづられたその第一節では、今の学者は神仏儒三教の一致を唱えたり、あるいは是非を争ったりしているが、道とすべき道は三教を超えた別のもの、すなわち「誠の道」である。仏教はインドの教え、儒教は中国の教えである。日本には日本の神道があるが、今の日本の道ではない、と述べている。ここで説かれる「誠の道」は儒教の実践道徳そのままであり、一方、仏教や神道にも説かれる社会の常識的な規範である。後世に付け加えられた「加上」の部分を取り去り、それぞれの思想の出発点を見た時、どれもその時代、その国に合った「あたりまえ」の常識的規範から成り立っていることに、仲基は気づいたのであろう。

青空文庫を読む。

 これをなぜ坊さん達が攻撃したかと申しますると、此人は詰り日本で大乘非佛説――大乘が佛説でないといふ、釋迦の説いたものでないといふ説の第一の主張者であります。さういふことで坊さん達が躍起となつて此人を攻撃したのであります。併し富永の研究は、大乘が佛説でないといつた所が、それは何も佛教に對し惡口を言ふために書いたのではない。佛教者に言はせると、佛法を謗つて書いたやうに申しまして、非常に憤慨して居るのでありますが、實は何も謗法の爲に書いたのではない。唯だ佛教を歴史的に學術的に研究したいといふのであります。

内藤湖南は、富永仲基は合理的に考えたんだよ、ということを話している。

お釋迦さんの話を見ても、過去の事を書いてあるかと思ふと、現在の事、未來の事、一度にいろ/\の話が出て來まして、一體それは何億萬年前の話であるか、昨夜の話だか、今の現在の話だか、ちつとも分らないです。十萬億土の西の方に阿彌陀如來の淨土があると、さうかと思ふと十萬億土は極く近い其處にあるといふ、とてもお話にならない。さういふ風に皆んな書いてあるから、歴史といふものを組立てることが出來ない。

国民性というのがもとにあって、宗教というのはカスタマイズされるのだと。

外の國の宗教を自分の國に移すときには、自分の國に合ふやうに之を變形しないとうまく合はない。印度の幻術的な宗教、何かといふと十萬億土などといふ取留めもない目まぐるしいことは、日本に應用することは出來ない。日本に應用するときには、もつと手短かな、手つ取り早くしなければ日本人には入らない。

id:nand文芸に置き換えろと言っている。時代に合ったものを作れ。いや、文芸は自然発生すらする。時代や地域、文化ごとに、文芸という形のない存在は、うまくフィットしていくのだと。


文芸プレイヤとして

それじゃあ文芸プレイヤ協会<露伴の子供たち(未認知)>の公式ビジョンは何かといえばそれはもちろん超古代文芸です。

文芸プレイヤ」という単語は、これもリンクされている d:id:Erlkonig の文書

から倣ったもの。プレイヤの団体にビジョンがあるべきだと言っている。公式という言葉を用いるからには、団結、連帯することを強く意識している。

このあとの文章は、タイトルでもある「超古代文芸」についての解説であろう。


宇宙

わたしは常々、日本の文芸は宇宙を超越していないと感じていました。宇宙を超越する気があるのかどうかも怪しいものです。

キーワードとなるのは「宇宙」。この文章で「宇宙」が出てくるのは以下の箇所。

宇宙から主審を招くべきだとわたしは言いたい。

主審は、上記 d:id:Erlkonig に野球の比喩が出てくることから、野球の審判のことを指している。

宇宙審判を招聘したら宇宙を超越できないではないかと思われるが、おそらくわざわざ呼んでおいて、事あらば殴る気である。そして退場の指示を受けたのちに放逐されるであろう宇宙の外を観測する気だ。

id:nand の文章に「宇宙」が出てきたときはおそらくこういうイメージの宇宙であろうという予測はできるが、この読解は石川賢に詳しい方に任せたい。


宇宙から主審を招く理由はこれ。

そもそもあれです文芸とか罵倒芸とかそういう言葉があれですよ死後数時間も経過していないハナタレ小僧が罵倒を評してあれは芸になっているとかいないとか一体どういう文化と伝統を受け継いだ上でものを言っているのですか。

罵倒芸という言葉に納得していない様子がうかがえる。文芸も、芸と呼ぶには何を核としているのか、その継承する内容が問われる。コンテクストの重みまで、現在の創作者に問われる、無責任ではいけないということか。

誰がジャッジメントできるのであろう?


まさか凡ての物をdestroyするin the wayというわけでもないでしょう。

文化と伝統を壊したら芸ではなくなるので、芸であると自負するのであれば壊せないはずだ。

id:nand に宇宙を destroy する気があるかどうかは、ここからだけではわからない。


会話の成立

後半は台詞になる。

背後に膨大な情報が含められた単語が頻出するので、とても今夜中にはできまい。力不足を恥じる。

機会があればまた新たなエントリで触れることもあろう。

最後の1行に述べていることがもっとも重要。台詞はそれを説明する形をとっている。

ごらんください。会話が成立していません。

この行は深い。

膨大な文脈があって文芸は成り立っている。

現在の情報化社会においても、各文化の断絶が明らかになるばかりだ。

これは前出の富永仲基の説とつながっているように感じる。

背負った文化によって、話が成立していない。

これは d:id:Erlkonig のエントリのブックマークコメントなどでのやりとりを見て id:nand が感じたことかもしれない。

あるいは、文芸プレイヤとして自認する者は、断絶を覚悟せよとも受け取れる。


そこまで考えが及びませんでした、と僕は前エントリで書きました。あれは冗談ではなく、本当に及んでなかったので正直にそう書いたのでした。

もし、本当に筆者が文章にこめたすべての思いを、意思を、読者が受け取るためには、今日、このような努力が必要になります。

技術によって、この言語による情報圧縮技術による精華――そう、文の芸のひとつです――を展開しやすくなるのでしょうか。実現するならこれは偉大な転換点といえましょう。

外部記憶の処理によって断絶をなくすことはできるのか。

ではまた次回。

みんなのビジョン3

| 01:13 | みんなのビジョン3 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなのビジョン3 - 論理兵站 みんなのビジョン3 - 論理兵站 のブックマークコメント

お返事ありがとう

みなさんのおかげで、ほぼ日刊になっております。

「文の芸はいままでメディアを渡ってきた強い子でそもそもメディアに縛られるもんじゃないんだけどなんでか紙の本って強いよねー、Google Wave が登場してどんなふうに変化したら面白いかなー」みたいなことを話し合うシリーズです。

いままでのあらすじはこちらをお読みください。

今回も別にトラックバックではないものが含まれています。

あと、2回ほど叱られた。


執筆過程の再現

共同執筆で三時間ぐらいでばーっと小説書き上げて、その、小説が出来上がるまでの課程を疑似リアルタイムで後から誰でも追えるんじゃろ?涎でる

執筆を開始してからずっと完成するまでが、あるいは準備段階までを記録しておけるとしたらすごい。

それをまとめてパッケージとして提供できるとしたら、大変なメリットですね。

え、書いてる過程を再現できるの?それ、俺が前からほしかったエディタじゃね?

新しいことをしようというのではなくて、いままでに行われていた学問の、研究のたすけにもなると思うのです。それができると思うんだけど自信がない。

こういうことを知りたいので、どなたか詳しい方、Waveの仕様から文芸においてどんな目的に使えそうなのか解説していただけると幸いです。


「未満」なものをすくいあげるシステム

「感想」「ツッコミ」が物語に組み込まれていく感覚。朝ガスはほぼ日刊だった、が、(電脳筒井線からの)「反映」にはいくらか時間がかかった。この「反映」の速度がどんどん短くなってきているのが現在なのだと思う。

思うんだけれども、自分の感覚としては、まだハードルが高いんではないかと思っている。って、あんまり正しくない表現だった。「もっとすくい取れるものがあるのではないか」という感覚なのだと思う。今までの試みは、「電脳筒井線で持論を展開する」レベルの人はすくいとれていると思う。それはすごいことだ。さらにそれを一歩進めて、「隊長は気が狂っている」もすくい取れるようになるのではないか、それが物語の一部として駆動していく未来。

総表現者社会とか言われるけれども、僕たちが観測していない表現者も実は多い。

どうしたら、全員の物語ができるか。

断絶をなくすことによって何が起こるか。

また、今よりも多くの人に対してその機会をひらくことで、一体どうなるのか。

善悪、是非ではなく、これができるようになるということは、いつか現実のものとなるということなので、そのことは心に留めておかねばならない。

技術の進歩がもたらされ、そのことが創作の主題となっていくのだなと思いました。


「なんでも物語だ」と言うのは容易い。けれども、それはやはり、意図を持って切り取られなければ「物語」にならないと思う。つまり「編集」されなければ「作品」は生まれない、ということだ。自分で自分の語りを、意図を持ってプロデュースできて、ブロードキャストできる人はいいけれども、多くの人にとって何らかの補助輪は必要だろう。

「場」を設定し、いわゆる「お題」を決め、「採用」をコントロールし、そして「期日」を設ける。読者投稿的な、そんなイメージ。そういったものが、一人の人間だけに負わされるのではなく、たくさんの人と、そして便利なシステムによって回転していく様子が見たいと思う。

編集作業の重要性について指摘したのは今回の一連のエントリで初だと思います。

新しい世界は編集行為をどう変化させるのかも、もちろん考えていくべきテーマです。

僕は今日のウェブにおいてもっとも足りていない、何かがズレてしまっているのは編集の役割じゃないかと思ったりもするのです。


ところが今の私たちは、もう少し開けた広場に差し掛かっています

紙媒体のいままでは、選別されたコンテンツだけが印刷されて広まるという状況だった。マーケティングとかして。

でもこれからの状況っていうのは、むしろ神話の時代に戻るんじゃないの、それを求めていくよ、という話。

 前の記事でスポーツの例を出しましたが、たとえば小さい頃から陸上選手目指してひたすら走り込んでるような人に対して、「単調な徒競走より野球の方がゲーム性があるのになぜ野球をやらないのか」とか非難するのはひどく的外れだと思います。なので、そういう人を「檻の中に閉じ籠もっている」的に揶揄するのはあまり好きくありません。

檻とか言ってごめんなさい。

非常によくわかるたとえだと思います。


「るるいえ」と書かれた稀覯書を井戸に沈めながら虚空にアッパーアッパー

宇宙を超越する気があるのかどうかも怪しいものです。

申し訳ありませんでした。考えが及んでおりませんでした。


まだつづく

執筆予告を受けているのでぜんぜん待ちます。

ほんとうは、こういう話題は、遠い未来まで、いつも頭の隅に置いてなきゃいけないものなんで、いつまででも続けます。

Wave 待ちながら誰か技術的に詳しい人がまとめてくれると超うれしいんですけど。

トラックバック - http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20090606

2009-06-05

みんなのビジョン2

| 02:45 | みんなのビジョン2 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなのビジョン2 - 論理兵站 みんなのビジョン2 - 論理兵站 のブックマークコメント

お返事ありがとう

今日もこれらのエントリに引き続き、

寄せられたご意見を紹介していきます。

今回は、夏目漱石に触れているエントリふたつからトラックバックがきました。20分と離れてない。


文学部卒SEのぼくとして

そんな経歴だったんですか。

情報の配布経路を新聞が独占できなくなったいま、創作の配布経路だって、どうでしょう。創作の発信源たる出版社だって独占できなくなる、ということだってあっていいはずです。創作物を発表する場が出版社から発行される紙媒体に制限されなくったっていいはず。だってきっとその方が楽しいし、なによりむちゃくちゃです。

大手印刷会社がその手の事業に手をつけているんですよね、たしか。電子ペーパーとか。

「まだかよー」と言ってる暇があったら、普及したときに何するか今から考えておこうぜ。


例えばsubversion的なバージョン管理ツールで創作をリビジョン毎に管理するというのもひとつだし、昔なつかしリレー小説的にもうみんな勝手に続き書いたらいいよ的なことをしつつも第一章の続きを書いてる人が複数いたっていいじゃない。第二章のrevAとrevBで、どんどん枝分かれして拡散して、それで面白い子が望まれて成長してまた分岐して、特に熱意のあるひとりがずっと育て続ける枝、みんなが続きを読みたい・書きたいとおもってわいわいと伸ばす枝、また死んだと思われた枝がまた他の枝の栄養となり。そうして生き残った最高の分岐枝が最終的に全ての可能性を押しのけて幹となる物語として成立すればいいのではないでしょうか、みたいなことも考えています。

制作時のリビジョン管理もできるし、コンテンツそのものの枝分かれ、ブランチっていうの? が同時に流通していいんじゃないか、っていう話ですね。

これはわくわくする。

話題は権利の問題にも及んでいます。

著作権というのはなんか言葉のイメージだけが走ってますが、結局は「独占的にコピーして販売する権利」でしかなかったはずなので、著作権がどうのこうのという議論をおファックするのであれば、例えばそういう重そうな荷物を抱いててはついていけないスピードで創作を走らせればいいのではないですかね。

ウェブで創作するようなバカは銭なんか得られなくても熱意があるので突っ走れる。絶対。だろ? そういうことにしないと話が進まない。

そのうち対価、報酬をどうにかするとして、誰のテキストを誰が改変したかって機械的にタグつけておけばいいんじゃないの、って思うんですけど、そのへん技術的にはどうなんでしょう。

だれがどこを書いたかも不分明なレベルの共同作業は面白いでしょうが一番の敵はやはり個人名で個人の作品を出して名前を売りたい、ひとかどの人間になりたい、という自我なのかなぁ。

たぶん、このへんの書き手の意識は環境によって変化していくんだろうなあ、っていうのはありますね。

自意識は邪魔だなーって思うときもあるし、それがなかったら発表行為の動機って何があるのかしら、っていう。

「自意識があるからブランチが同時に複数並行して流通することに作者は耐えられない」みたいな考えは、ちょっとつまらないと思う。問題があるなら解決策を考えればいい話で。人間の心持ちなんか、環境によって変わると思うし。そんなのどうでもいいから未来を見たい。

下で紹介するエントリでも触れてますが、口承文芸の時代の作者の名誉ってどんなもんだったのか、みたいな話がわかれば参考になるのかな。ご存知の方は教えてくださいね。


日本近代文学におけるシステマー

夏目漱石の項では文体を、黒岩涙香の項では手法を、菊池寛の項では流通を説明していただきました。

口承文芸は昔からインタラクティブでシェアード・ワールドでマルチ・エンディングでパブリック・ドメインだよ!

そのように、文芸はその身に、出自に、混沌と呼んでもいいような無限の広がりを秘めています。

もっとも荒唐無稽なのは文芸であるはず。

ときどき野蛮さが顔を出すんですね。

お行儀のいいものも必要ですが、そればかりではつまらない。

同人誌イベントなどに参加して個人的に感じた疑問なども、今回のご意見募集の動機につながっています。


以下、お返事を書きながら思いついた、思い出したことなど

これも、もし気になったら話題にしてください。

挿絵、文章以外との融合

絵本の文章は絵に追従して補足しているのに小説の挿絵って話の進行を断絶しがちだよなー、ということを思った。

もちろん挿絵や図を効果的に使おうとした試みは存在するし、タモリ同人誌『Tamorization』で一部チャレンジしたこともあるんだけど、「ブラウザで読む」ことを前提とした文芸を考えた場合、過去の試みを整理分類したり、どういうことが可能なのか考えていかねばならないなーと。


ルビ、読み仮名の指定について

すべてに自動的にルビをつけておいて、必要に応じて出したり消したりできるといい。

各単語のルビにはそれぞれ数段階のレベルを設定されていて、読者が調節できる。


デザイン、ディスプレイの違いに対応する

id:AirReader とチャットしていて、ディスプレイ環境がさまざまなので、送り手側がデザインを指定しても伝わりにくいという話がでてきた。

PDF などの形式で頒布すれば、リキッドデザインを避けることはできるけど、画面サイズの差はいかんともしがたい。

XML によるセマンティックなタグ、この言葉の使い方が合ってるのかわかんないけど、どの要素がどういう役割なのか(自動的に)指定しておけば、大画面で読むときも、iPhone で読むときも、クライアント側でいい感じにできる。読みやすいと感じるデザインを受け手の側で選択できる。

印刷するとき、文庫サイズでもA4サイズでも対応できるようになるのではないか。機械による朗読にも必要。

戯曲を印刷イメージそのままで執筆できるエディタって限られるじゃないですか、という問題もある。


まだ続きます

まだこれからエントリを書く、いま書いていると予告されている方も複数名いらっしゃるので、いまからでは遅いということはありません。

短い文章でもいいので、どんどんください。

とくに、こうして集まった問題の解法をご存知の方、技術的な解決方法を見出した方は、とくにお待ちしております。

id:extramegane は来週からちょっと多忙になる予感がしておりますので、すぐにお返事できないかもしれませんが、のんびりみんなで考えていきましょう。

だれかまとめ役をやってくれてもいいですよ。複数いてもいい。

僕を通さないで喧嘩するのも歓迎です。

「少しまちなー」って言ってくれる人も募集中。

masapguinmasapguin2009/06/05 08:58たしかsubversionはそれぞれの版ごとに誰がどこを更新したっていうのが残るはずですよ!

extrameganeextramegane2009/06/05 12:32そしたらその情報を利用して、「こういう分配をしまーす」って事前に決めちゃえばなんとかなるんじゃないかっていう気がします。autherってタグの人物名ごとに比率を変えることはできるのかなあ。たとえばですが、2代前の改変者には薄く報酬を渡す(このたとえが妥当かどうかは別として)、みたいな。フレキシブルかつみんな納得っていうのがよくて、そのためにはどうしたらいいんだろう。

トラックバック - http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20090605

2009-06-04

みんなのビジョン

| 07:59 | みんなのビジョン - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなのビジョン - 論理兵站 みんなのビジョン - 論理兵站 のブックマークコメント

お返事ありがとう

前々回と前回のエントリは、

ふだんより多めにTwitterのポストからリンクしてもらったので、そこからの人の流れが多かったように感じます。

たしかに、新サービスをホイホイと使っちゃうような人は、こういう話が好きな傾向があるかもしれません。

たかがサービス、たかがツールなんですけど、使ってはじめて体得していく感覚があるのでしょうか。

海のものとも山のものともつかないけれど、とりあえずやってみるというのはいいことだなと感じています。

Tumblrとかモバイルデジタル機器とか。使えば何らかの示唆を受けるものです。


さて今回は、これまでにいただいた「創作文芸のビジョン」への返信エントリをまとめます。

正確にはトラックバックをもらっていないものもあります。

関連する話題を勝手に集めた、と言い換えることもできる。


Webは人のログを集めて人の影を作る

その人というメタで結ばれたデータは柔軟に簡単に抽出、再構成できるようになったらいいな。

(中略)

ああ、これって走馬灯って言うんだっけ。

Webは人のログを集めて人の影を作る

オレはオマエを知りたい

人間を一単位として断片の情報を渡り歩いていくイメージでしょうか。

個人の主観と客観が混ぜ合わさり、誰かの客観とほかの誰かの客観が混ぜ合わさり、人間の多面性を表現するのに適したあり方かもしれないなと思いました。

新しい形式は、そこで記述される文章に、主題を与えることがあるんですね。

断片をどのように串刺しにするかを考えると楽しそうです。


コクピットみたいに。全員が編集者で読者で著者。

あー、この人はここでここの部分書きなおすんだーとか。

データの共有から機会の共有へ。

この項は、技術が送り手と受け手の境界を曖昧にするかもしれないということについて書かれています。

これまでも、批評や創作は、みんなが送り手であり、みんなが受け手で、鎖のようにつながった、不可分なひとつの流れだったんですよね。

改めてそのことに気づかされるのだなと思いました。


リンクっていうのはもう古い気がする。

画面の切り替わりはリンクではなく断絶。

これはもっと詳しく聞いてみたい気がします。

いまこうやってブラウザなりテキストエディタなりを使って作業しているわけですが、この話はもうインターフェイスから異なっているわけですね。

たしかにリンクしないで……、たとえば広大な紙があって、文章や図が点在し、読者は俯瞰したり天地反転させたり拡大縮小したりしながら読むというような感じでしょうか。

身体的な操作法が求められるかもしれません。

紙の本や、現代のブラウザには、実はいつも気にしていないけれど、制約がある。紙の本は面積が限られているし、マウスやキーバインドで操作するブラウザは、どちらかといえば不自由といっていい。

この点を克服できるならば大きな飛躍に違いないと感じました。


あと、僕に理解できるか心もとないですが、引用とリンクで教えていただいたセマンティックウェブについての文書を読もうと思います。


システマー

ゲームをプレイする人とゲームのルールを作る人にたとえ、文芸の形式や手法の革新を説明したエントリーがきました。

 たとえばRPGとかで。あるアイテムや技やキャラクターにカーソルを合わせると、解説として短いフレーバーテキストが読める。そういう断片テキストを適当な関係で大量に読ませて、集合的イメージを想起させる。そうやって何かを表現するのってまさに文芸だと思うんですが、それが文芸と呼ばれることはあまりないようです。

これを文芸と呼ばないとしたら、いったい何でしょう。

僕たちが普通だと感じているこういう文章より、上記引用のような短い情報の積み重ねのほうが、脳内の情報処理に近い気がしないでもありません。いま適当に言いました。

このエントリに対して向けられそうな反論を予想して、僕が勝手に再反論します。


一般的に小説は冒頭から最後の行へ一直線の構造をとりますが、いつもそうだとは限りません。

ゲームブックなどすべての分岐テキストも、夢枕獏の『カエルの死』も、あの『「あたし状態遷移図」、あるいは「あたし約5.2MB」』も、一直線ではありませんがたしかに文芸です。

たとえば音楽は(小説の文字の列と同様に)時間軸を進みます。だから音楽とか戻ったりしない。話のわかるヤツだ。

しかし現代音楽の楽譜が自由闊達であるように、

その直線的な構造を壊そうとする試みは、文芸においてもあっていいはず。

まさか現代音楽が音楽の範疇に入らないという人はいないと思います。

ことほどさように、小説がリニアなものに決まっているだろうという先入観は恐ろしいものです。

普通の紙の本の文芸は狭義の文芸にすぎません。

もし文芸が紙の本に閉じこめられる程度のものならば、巻物や木簡や粘土板の時代に滅びていていたでしょう。あるいは口承文芸の時代に。滅びていないということは、きっと文芸は強い子です。とにかく貴様ら、文芸のヤバさをもっと知るべきだと思います。

さらに、紙の本のいわゆる普通の文芸にあってさえ、直線的に時間が進行していると考えるのは早計です。

詳しくは筒井康隆の『超虚構性からメタフィクションへ』*1や『虚構と現実』*2をお読みください。


こうやって新しい形式の文章を考えることは、すぐさま商売には結びつかないかもしれません。

でも、文芸は必ず商売として成立していなければいけませんか。商売になっていない文芸は数限りなくあるし、たとえ広まらなさそうな形式であれ、そこに挑戦する人間はいていい。銭を生むことだけが価値ではない。

多様性がなくなれば、冒険心がなくなり、既存のジャンル小説の縮小再生産を読み続けることになってしまう。

そんなのはまっぴらごめんです。自覚のない固執を伝統芸能として認めたくなんかありません。

そういうのが好きな方は、どうぞそのままでいてください。その輝きを永遠に保ち続けていてください。檻の中で。


ならば文芸のアーキテクチュアはいつ破壊され得るのか。それは未来永劫起こりえないのか。まさかだろ!!

奇しくも、上で触れた檻やノンリニアな感じについて触れているエントリをさきほどいただきました。

人類は散逸的に与えられた情報を画像的に読み取って脳内で再構築することが可能である。それは超越的な認知を形成し、文章のストーリーだとか公開順序だとかそういう古典的努力の一切を超越したところに未来的な像を結ぶ。

さて、我々は認識の檻の中に生まれ、認識の檻より出ることなく死んでゆくのか。

固定観念というのは恐ろしい、あの人は檻に入っていることを知らず喜んでいるのだ、上で僕もそう書いてしまっていますが、果たして自分が檻に入っていないとも限らない。

後世の人間が見たら、現代の人々って、きっと些細なことにとらわれている哀れな存在に違いないんです。

1990年代序盤はみんなポケベル使ってニコニコしたりドキドキしたりしてたんですよ。公衆電話から片仮名のメッセージを送ったりしていた。

それはそれで詩情があったので全面的に否定できない、むしろ誰かあの感じを再現するようなアートを作ればいいのにとすら思いますが、現代の技術を失ってあの時代に戻ったら辛い。


iTunesとテキスト

自分でこんなこと書いてましたが

iPhoneのつぎのOSiTunesとメモの連携が実現するっぽいですね。


まだまだご意見をお待ちしています

もしまたトラックバックが増えたら、こんな感じで紹介していきたいと思います。

*1:小説のゆくえ(中公文庫)所収

*2:着想の技術(新潮文庫)所収

2009-01-18

ようやく一段落したようなので架空の人物で作者のend-rollさんに手紙でも書くか

| 13:16 | ようやく一段落したようなので架空の人物で作者のend-rollさんに手紙でも書くか - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - ようやく一段落したようなので架空の人物で作者のend-rollさんに手紙でも書くか - 論理兵站 ようやく一段落したようなので架空の人物で作者のend-rollさんに手紙でも書くか - 論理兵站 のブックマークコメント

ようやく一段落したようなので今回の一連について一言言っとくか - end-rollの日記

こちらのエントリ、楽しく読みました。

主人公"end-roll"の自意識がにじみ出ていて。

そういうの嫌いじゃありません。

ブックマークで「ふーん」的なコメントがつきましたが、僕だけは主人公"end-roll"の味方ですよ。

脇役の"つまんねー"や"どうでもいいよ"のひどい罵倒に対して動じない、大人な感じも好感が持てます。しかし、彼らの根拠ない誹謗中傷はひどかった。僕は思わず、読みながら反論してしまっていた。

あんな書き捨てのコメント、anondでやればいいんですよね。

あいつら、サブアカウントを使うわけでもない卑怯者ですから。

anondの汚いヤツみたいに嫌いです、あんな馬鹿。

よくあんなにクズみたいな人格を描きわけられるなあって思います。

僕も、そんな文章を書けるようになってみたい。


"end-roll"のどこが好きかを説明させてください。

【完】っていうのが、すごくよかった。

「俺がメタレイヤーの神」って気持ちが、すごくよく出ていた。

敵の背後をとりあうゲームは珍しくないですが、ベタレイヤーを最後に出すところなんか、最高です。

"end-roll"っていうアカウントの文字列もいい。オチを思いついたとき、その文字列でサブアカウントをとらなければならかなった気持ち、よくわかる。


さて、本題です。

どうしてもわからないことがあるんです。

このコメントについての質問です。

2009-01-13 - ファッキンガム殺人事件 - ファック文芸部

主人公"end-roll"は、ひとつの事実誤認をしているように読めます。

文芸イベント(可能な限り公平である)と誤認させる内容での募集」

このように発言していますが、憎き敵"xx-internet"は、設問で

もっとも稀少な(と質問者が判断する)作品を書いてくださった方に

と、主観で評価する旨を明記しています。

主人公"end-roll"は、これをわざと無視したのでしょうか?

それとも校閲のミスですか?

また、「再犯」という言葉をつかっていることから、"xx-internet"の過去の行状を知っているということになります。

もし知っていたとするならば、どうして怒っているのでしょう。

文芸イベント(可能な限り公平である)と誤認させる内容での募集」

主人公"end-roll"以外の人物が、私的なイベントなのに、公平であると誤認し、間違って応募してしまうかもしれないから? 親切心で?

"end-roll"に限って、まさかそんなことないですよね。明記してあるのに読み落とす馬鹿はいません。

「前科」とは、具体的には、第二回ファック文芸部杯…でしょうか?

あのときは採点方法が異なりました。客観性にもとづくものであったはずです。むりやり同一視しているのは、なぜでしょう。

僕がなにか読み落としているのだと思います。もしお返事をいただけたら綺麗に納得できると思うので、よろしくお願いします。

まあ、そんな些細なところはどうでもいいですね。楽しませていただいたのですから。


最後になりますが、僕、"end-roll"のこと、他人とは思えないんです。

親近感がある。

実は僕もサブアカウントなんです。

end-rollend-roll2009/01/18 16:30覚えていたことという評価基準の明言と、覚えていた理由との矛盾がどうのといったコメントのくだりを見て、分かってもらえなかったってことですかね。
私的なイベントにしろ、程度ってものがあるわけだから、といったところにまで考えが及ばなかったのなら、それは俺の書き方が足らなかったってことなんでしょう。
ここは「商業イベントでも~」とか並べる人が出てくるのを期待してたわけですが、案の定いました。
結局そこはxx-internetさんの書き方がまずかったという話で終わったけど。

どうせならあの真っ最中に突っ込んで欲しかったです。
「以前も評価についての苦情があったから、今度こそちゃんとやるのかと思えば」
といった類の返しも考えてたのに。

というか今更「id:end-rollというキャラとその発言に対して」のツッコミというのは後出しの捨て台詞的な響きしか漂わないからやめたほうがいいです。
コメント欄や人のエントリーで色々答える俺が原因なんだろうけど。
わざわざ答えるから、釣られた魚として潔くない行動を取る人が出て来るんだろうし。
これを最後にしときます。

extrameganeextramegane2009/01/18 17:09さすが主人公ですね。
引き際もバッチリ!
無敵で弱点がない^^
キャラレイヤー? それはなんですか?
僕の読解力が足りないのかな?
お返事ありがとうございます。
どうやら魚拓がとれたようなので存分にアカウントお消しください。
お疲れ様でした。またやりましょうね。

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2009-01-17

yarukizerowingさんへの手紙

| 03:38 | yarukizerowingさんへの手紙 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - yarukizerowingさんへの手紙 - 論理兵站 yarukizerowingさんへの手紙 - 論理兵站 のブックマークコメント

なんか知的っぽいことを言ったり正論をぶったりする能力もポジションも自分には無いということです。それが創作に必要なのだとすれば、

http://neo.g.hatena.ne.jp/yarukizerowing/20090116/1232114387

そんな間違った知識を押しつけた悪いやつは誰ですか。

とっちめてやります。

トラックバック - http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20090117

2008-08-20

お礼

| 15:10 | お礼 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - お礼 - 論理兵站 お礼 - 論理兵站 のブックマークコメント

永井版DMC - 論理兵站 - ファック文芸部

これなー、原作中の一世と松山ケンイチを含めてさらに一段上のが必要になっちゃってんですよね……。零世にすればいいのか……。

もっと読みたい。

http://throw.g.hatena.ne.jp/sasuke8/20080613/p1

ありがとうございます。はじめて二次創作したいなーって思ったんですよね。

のんびりしたら書けるのかわからないですけど。自分が絵の模倣できるならまんがでやりたい。

sasuke8sasuke82008/08/20 18:34松山ケンイチまで出てくるのですね。魔界A-作品世界-現実世界-映画世界-魔界Bとかで、間の現実世界でクラウザーさん対クラウザーさんのハルマゲドン!そこに現れる真クラウザー!そして1000体のクラウザー軍団!
楽しみに待ってます。

extrameganeextramegane2008/08/20 19:49こういうときにムチャ振りっていうんだな

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2008-08-19

パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5B

| 11:45 | パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5B - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5B - 論理兵站 パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5B - 論理兵站 のブックマークコメント

これだから現実と空想の区別がついてないやつは困る。

パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5A

| 11:45 | パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5A - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5A - 論理兵站 パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題5A - 論理兵站 のブックマークコメント

これだから現実と空想の区別がついてるやつは困る。

パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題4

| 11:39 | パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題4 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題4 - 論理兵站 パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題4 - 論理兵站 のブックマークコメント

いちいちそんなことばっかり考えていて時間がかかるのでRPGができなくなった。

パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題3

| 11:26 | パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題3 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題3 - 論理兵站 パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題3 - 論理兵站 のブックマークコメント

そんで、過去の自分の世界認識を改めるようなできごとがあった場合、過去の制作物を葬り去りたくなることもあるでしょう。

富野由悠季はこれを黒歴史と呼び、現在の自分までつらなるものとして扱いました。切り捨てたんじゃないんです。

自分設定は、恥ずかしいことではないのです。俺は幻想なんて抱かない現実主義の人間だなんて言ってるやつだって、日々の暮らしの中で、帰納しながら推理しながら自分設定を作っている*1

その自分設定と新たに判明した事実の齟齬をすりあわせることは決しておかしなことではない。日課ですよ。世界の形は、毎日変わるんです。われわれにはそのために感覚器がついているのです。

空想ごっこが恥ずかしいとか、未熟な空想ごっこだから特に恥ずかしいとか、そういうんじゃなくて、そういう経験を踏まえてこそ、われわれ人間は、現実世界と向き合えると思うんですね。

もし黒歴史を切り捨てていたら、強度の高い幻想なんて生まれないのです。黒歴史なんて世界に含んでしまえばいいんです。

強度の高い幻想をたずさえていなくては、われわれはみんなが現実と呼んでいるこのゲーム世界に立ち向かっていくことが困難なのです。

パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題2

| 10:55 | パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題2 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題2 - 論理兵站 パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題2 - 論理兵站 のブックマークコメント

下のエントリに続けていうと、自分設定っていうのは、その人が世界をどう認識するかに影響を受けると思うのですね。

自分設定において「特定のなにものかの存在を許せない」というのは、その人が世界をそういうものだと認識しているのではないかと勘ぐってしまうわけです。

そういう人に言いたいのは*2、世界はもっとフレキシブルだということです。みんなが口癖のように言う「ありえない」ことなんて、そうそうないですよ。すくなくとも、みんなが現実と呼んでいるこのゲーム世界におけるextrameganeの俺設定ノート(コクヨB5)によると、「ありえない」って言葉は超マジありえないものに遭遇したときにとっておけ、と書かれている。

毎日びっくりすることに飽きたら大人。子供でいることを恥ずかしいと思ってびっくりしてないフリをしはじめたら大人。早めに大人になっちゃったやつほど狭い常識にとらわれているのが哀れでな……*3(上から目線)。

それとは別に、カエルのヘソも、パンダの卵も、徳川埋蔵金も、お前があるって決めたら、それはある。たいていの人はないって決めてるけど、それはないって決めてるからその人にとって存在しないだけであって、あるって決めたお前にとっては、あるとしか思えないはずだ*4

いやいや、世界がこうあるべきとか講釈を垂れるのが目的じゃないです。

なんで貴様の愛するキャラクターのためにきちんとした世界を作ってやらないんだ、と嘆くのが主目的でした*5

えーと。

ゲームのシステム上、パラディンを作れるのであれば、パーティにパラディンを含められないのは仮の約束(たとえば呪いをかけられていたとか)であって、パラディンを加入できるようになった姿で大団円を迎える設計図が浮かび上がってこないのですか、と思うわけです。もし時間軸で後の話を考えているなら、一時的に旅のパラディンの協力を受けたとかでもいい。

どっちかいうと、パラディンなしの攻略法をほかのプレイヤー(つまり世界の外部!*6)に聞くことのほうは、あなたの世界内ではルール違反じゃないんですか? とも問いたい。みんなが現実と呼んでいるこのゲーム世界ではルール違反っていうか、マナー違反っていうか、デブのスピリチュアルカウンセラー以外はできないことになってる*7

パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題

| 08:12 | パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題 - 論理兵站 パラディンがいたことになるかいなかったことになるか問題 - 論理兵站 のブックマークコメント

「妄想は脳内でつじつま合わせるのが一番いいよ。現実世界で何か逸脱しても、脳内でつじつま合わせられればそれでいいんだよ。だから、お前パラディン入れて攻略しろよ、でも頭の中ではパラディンなんていなかったことにしろよ」

http://d.hatena.ne.jp/tisdale/20080818/p2

ちょっと考えたんですけど、自分が他者におしつけたい答えは、

「妄想は脳内でつじつま合わせるのが一番いいよ。現実世界で何か逸脱しても、脳内でつじつま合わせられればそれでいいんだよ。だから、お前パラディン入れて攻略しろよ、パラディンが仲間になる感動的な追加エピソードを作っちまえよ」

でした。

両者に本質的な差異はないんですが、システムとして選択できるジョブを加入させられないような自分設定の中途半端な狭量さに憤りをおぼえるタイプ。

*1:そうとしか思えないのでそういうことに決定しています

*2:別に声を大にして言いたいわけじゃないので黙ってることがほとんどですが

*3:このあたり違和感があるのであとで書き直す可能性があります

*4:現代でたとえを出すなら、アポロの月着陸はあった/なかった。生物の進化に神の手が介入した/しなかった。どちらも信じてさえいれば、あったことにもなかったことにもなる。自分と違う考えの人間を説得できることもあるが、非常に面倒

*5:この程度の架空の人物への愛と架空の世界への愛はあると自認しています、「自分の作ったキャラクター」愛の方々には問い詰めたいこともあるのですがまたいつか

*6:世界の外部に相当するかどうかはプレイヤーのとらえかた次第なんだけど

*7:オチのために話の構造を歪ませた

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2008-03-10

有村さんにマジレス

| 14:38 | 有村さんにマジレス - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 有村さんにマジレス - 論理兵站 有村さんにマジレス - 論理兵站 のブックマークコメント

状況

  • 昨夜、Twitterで有村さんが泣いていた。

http://twitter.com/y_arim/statuses/768843040

http://twitter.com/y_arim/statuses/768843661

http://twitter.com/y_arim/statuses/768844155

http://twitter.com/y_arim/statuses/768844620

  • そして瀬戸風味さんが応えていた。

http://twitter.com/setofuumi/statuses/768846710

http://twitter.com/setofuumi/statuses/768847593

http://twitter.com/setofuumi/statuses/768851414

http://twitter.com/setofuumi/statuses/768852633

http://twitter.com/setofuumi/statuses/768861827

  • 僕はといえばTwitter上にあんましいなかった。

http://twitter.com/extramegane/statuses/768498316

  • さっきからobjectOさんが回答している。まだ続いている。

http://twitter.com/objectO/statuses/769138956

http://twitter.com/objectO/statuses/769139611

http://twitter.com/objectO/statuses/769140085

http://twitter.com/objectO/statuses/769143974

http://twitter.com/objectO/statuses/769145267


浅はかなのか? という有村さんの問いには、浅はかでもないし愚かでもないと答えます。

http://twitter.com/y_arim/statuses/768434390

そういう人物がいていいと思います。そういう存在があってこそ、物語に深みが与えられると。有村さんのブログが激しいけれど優しいものであるのは、そうしたことだと思うのです。

以下、「釣り」「ネタ」「マジレス」っていう言葉が大っ嫌いな僕が、それらの単語を消極的に用いながら、弁明させていただきます。そして、なんか問題点とかはっきりしたらいいなと思う。

有村さんとは

  • 個人的に印象深いのは、ファック文芸部杯のときに苛烈なブックマークコメント*1をくれたこと。このときは、どこに齟齬があるのかわからなかった。
  • 今年始め、有村さんはTwitter新年会へ行った。大いに傷ついた体験を記事にしていた*2
  • そういった行動を、有村さんは「形を変えた自傷衝動」かもしれない*3と言っていた。

  • 有村さんは、人に会いたくて行ってしまうようなんだけれども、僕にとって100人集まるオフ会なんていうのは敵の本陣に単身乗り込むみたいなもんなので、とても足を運べない。
  • それらのことから、有村さんは、僕よりも他人を信じ、他人を含む世界を信じ、愛を持っているんだと思う。
  • その態度と比較してしまうと、僕なんかは最初から誰のことも信じていないし愛していないんだなと省みた。
  • 有村さんも、僕と同じように、あるいは僕以上に、傷つくことが怖いはずだ。しかし有村さんは、行く。
  • 異なる点は、おそらく真摯な態度なのだと思う。有村さんは真摯だ。

(objectOさんに指摘されたのでこのあたり保留)

有村さんの発言でファック文芸部の名前が挙がっているのは

個人的にはこう感じます

釣りとか言ってるやつは、真実に気づいていない。釣り人は、自分が真実を口にしていることに気づいていない。釣り人は自動筆記のように、自分の知らない真実を語っている。しかし釣り人はバカなので、自分の偏狭な先入観から、それを現実とは異なるもの、虚構だと勝手に思い直す。

それが真実でない証拠などないのに。

釣り人個人なんかどうでもいい。小さな釣り人になんか何がわかる。我々の背景には、歴史には、ルーツには、見聞きしたすべての情報は、すべての体験は、偉大なる虚構の海だ。

すべての釣り人は、「おめえら騙されてんじゃねえよ」といいながら、本当はそいつが騙されている。

自分の嘘に、釣り人自身が騙されている。ネタにマジレスする人間だけが、真実に気づいている。


……しかし、これは詩的な表現でしかなく、論理的な説明になっていない。 有村さんは戦っているので、戦っているフィールドを現実この世界と見定めているので、「そんなの気の持ちようだよ」「釣りエントリに対してマジレスしたって無駄足を踏んだなんて思うことないですよ」とか、そういう説明では通じないと思う。きっと。

有村さんは自分から死地へ赴いているので、「考え方を変えてみたらいかが?」なんていう言葉を送ることができない。

現実のどうしようもなさ、残酷さに身を投じ、有村さん自身がそこで傷つくことによって問題点を浮き上がらせる手法をとっているのだと勝手に把握しています。

双方の共通点と差異

有村さんのことを、僕は上記のようにとらえています。

そして有村さんはご存知だと思うのですが、上記リンク先のようなことを、ファック文芸部の部員は、それぞれ連携せずに、勝手に考えている。違うことを考えている人がいるかもしれないし、同じことを考えている人がいるかもしれません。今回の記事も同様に、僕の個人的な考えです。

さて、両者の相違はどこにあるのでしょうか。基本的には似ていて、部分的に異なるんだろうなあって思っています。


この世界が含む問題点。世界には、みんな気がついていないような点があり、そこから悲しい出来事が発生している。その問題意識は、たぶん共通のものなんじゃないかなと思うのです。何を悲しいと感じるかは、似ているはずだと思うのです。

ただ、そこからとるアプローチが異なっているように思います。有村さんの立場から見たら、現実を放棄して虚構を選択することは、逃亡に見えるのかもしれない。実際、自分は逃亡で構わないと思ってやっています、まず虚構によって自分が助からなきゃいかんのじゃないかと思ったことがあったからです。有村さんほど強くないのです。有村さんを強いと表現することが失礼という話もありますが。

僕はその問題に対して、「みんなが現実だと信じていること含め、全部が虚構だと考えたらどうよ」と思ってやってきた。有村さんは「自分が犠牲になって傷つくことで世の理不尽をあぶり出す」というような感じなのじゃないかと見受けます。手法が異なる。


たぶん僕だけじゃなくて、ファック文芸部員全員がそうだと思うんだけど、本気で書いたエントリーに「ネタ」とかタグつけられてしまうんですよ。失礼だと思いませんか? 本気の虚構が真実だと思って書いているのに、ネタ扱いするやつがいるんです。有村さんも、Twitter新年会のとき、本気の発言*5にネタレスされて怒ってらっしゃいました。僕は、あのときの有村さんに共感を覚える。

ブックマークのコメントやタグにおけるネタっていう単語は、勝手に「これは虚構ですよ」と判断し、言外に「このエントリーは現実を忠実に再現していないが、現実とは確固とした存在であり、すばらしいものですよ」と言っているようで、非常に腹立たしい。何を決め付けているのだと。


また、僕は「異業種交流会でハッピーになっちゃおう!」とか考えている人が憎い。その前向きな感じが憎い。騙されて壷でも買ってしまえと呪えるくらい憎い。だからTwitterの大人数オフ会なんかには、どうしても違和感がある。しかし有村さんは、新年会に希望を持って参加して、そして裏切られた。ここも異なる点だと思います。有村さんは世界を信じている。

僕にとっての敵陣に突っ込む有村さんの存在は、僕の心も痛むけれども、失礼ながら痛快でもある。異なるとはいえ、応援したい気持ちがあるのです。

ただ、中途半端な、現実から逃げ出して虚構を操作している僕から言えることもないので、今まで黙っていました。


  • 有村さんは、現実から逃げないで、傷つきながら戦っている。
  • 僕は、現実と虚構を混乱させ、現実を不確かにしか捉えていないくせに、その現実を不用意に信用している敵に対して、お前らの現実なんてグラグラだぞと言いたくてやっている。
  • こちらのやり方を貫くと、現場に出ている有村さんが、巻き添えをくって虚構化されてしまったように感じることがあるのではないか。
  • これをうまく解決する方法はないものか。

簡単にまとめない

ですので、有村さんに対して、簡単なことは言えない。合ってるかどうかわからないけど、自分なりに有村さんが考えているだろうことを、勝手にまとめてみました。

今から思えば、もっと早い段階で書くべきことでした。

これを読まれて、「そうだよ」「違うよ」などありましたら指摘ください。建設的な何かを始めるためには、まずそこからだというような気がしたのです。

まだまだこれから考え続けたいテーマです。

extrameganeextramegane2008/03/11 12:56彼と会話しました。
こちらへの誤解はとけたんじゃないかと思います。
上記、ぼくが把握している彼の実像には、若干の変化がありました。
実際に意見交換してみると違いますね。
Twitterでは限界があるのか、というようなことも思った。

extrameganeextramegane2008/03/11 22:29あらすじ。
まず、昨年の11月から続いている虚実についての話題がありました。
そこで有村さんが、固有の虚実観を提示していました。
今回、意図を伝え合ったところ、問題意識が近いところにあることを確認できました。
これをきっかけに虚実問題に触れた方は、ぜひ掘り起こして知っていただきたいと思っています。

extrameganeextramegane2008/03/13 02:59ネタタグ批判するときに自分ごめんなさいしなくちゃいけないのは、おれも [創作]だの、そういうタグ使ってるんですよね。ネタっていう言葉に対しては困っているけれども、タギングには自由がみとめられてしかるべき、と思っている。けれども流れでなんとなくdisってみた。「タグなんか個人の勝手なんだから他人がどうこういうな」って言われてないのが意外っちゃ意外です。

2007-12-22

創作からみたハンドアウト2

| 02:58 | 創作からみたハンドアウト2 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 創作からみたハンドアウト2 - 論理兵站 創作からみたハンドアウト2 - 論理兵站 のブックマークコメント

前回と同じ話題です。こちらにお返事。

ファック文芸部

なるほど。ハンドアウトがある状況だけしかご存じない人が多くいるわけですか。

TRPG が持つメタ性、創作性に興味を持つ部外者としての疑問は、以下のような感じでした。

  • ハンドアウトあり/なしの状態を比較したとき、ありの状態のほうは、どちらかというと「自分が好きに動けるドラクエ」から離れていってないか
  • TRPG をインタラクティブな共同創作だと考えたとき、GM が PL の領分であったところまで勢力を拡大しているのではないか
  • 昔のルールのほうが自由度でいったら勝っていたのではないか
  • 自由度を欲しているのでないならリプレイでも充足可能なのではないか

しかしハンドアウトなしの状態を知らない人がいるということなので、ちょっと思い直しました。歴史を捏造してみました。どうでしょう。あくまでも想像ですよ。

  • 昔のルールの TRPG はゲーム的娯楽性があったけれどとっつきにくかった
    • そのうちプレイ人口が頭打ちになった
  • とっつきやすいルールができた
    • とっつきにくい理由は「プレイの時間がかかること」「自由度が高すぎること」「経験豊富なプレイヤーと初心者の交流が少なかったこと」「初心者が昔のルールに馴染めるような環境が整えられていなかったこと」だったので、そこを見直した
  • 登場した新しいルールは現代日本の若いユーザーに対して親和性の高いファンタジーになっていた
    • 元のTRPGPC、あるいはビデオゲームの RPG→日本的なファンタジーを導入したビデオゲームの RPG→ビデオゲームの影響を受ける他メディアのコンテンツ→新しいルールの TRPG …という迂回路

FEAR社がハンドアウトを導入したのは、プレイを手軽にし、短時間にし、初心者でもロールしやすくする目的だったと、いろいろ聞いたりもして把握しました。FEAR 社は需要に対して供給したわけで、責められる話ではない。

そこで新たな疑問が発生します。

  • ハンドアウトを利用して遊び始めた初心者が、初心者を卒業してもなお昔のルールを回顧しないとしたら、それはなぜか
    • ゲームのルールおよび、そこからに生じるゲーム的娯楽性に対して興味を感じないのか
    • ゲームのルール以外の部分、道具立てや世界設定などの面に興味を感じないのか

まさか昔からのユーザーが排他的だからっていうわけではないと思うので、ゲーム内、あるいは作品世界に理由があるのではないかと思うのですが。

部外者の勝手な感想としては「うーん、すでに両者は別のジャンルのホビーなんじゃないかなあ」だったりします。同じ TRPG と認識するから喧嘩してしまうのであって、分裂して独自の道を進めばいいんじゃないかなと。

その際、昔からのルールのゲームの側では、新規ユーザーを獲得する作戦を考えなければならないような気がします。昔からのユーザーが言う、TRPG が持つゲーム的娯楽性を存続させるためには、そっちのほうが手っ取り早いように思うのです。

一方、新しいルールのユーザーは、既存のゲームより、シナリオやストーリー、世界観の確認、共有に近い行為をメンバー間で行っているのではないか。そういう印象を受けるようになってきました。自分は共同創作としての TRPG に興味を持ったのでしたが、なんか創作の範疇を突破しちゃってるような感じがする。共同創作する小説というよりは、民話や神話、あるいは神事、伝統芸能に似ているのではないかと。ゲームでも創作でもない、別の何かなんじゃないかと。ikkan01 さんのエントリーを読んでそう感じたわけではなく、そう考えたら納得できるんだけどなーという。

自分なりに今の理解の整理をしてみます。

  • 歴史的にみればハンドアウトは GM 裁量の拡大だが、新しいユーザーにとっては最初からそういう状態だったので、プレイヤーの決定権が圧迫されているとは感じない
    • たとえば私が自分の背中に羽が生えておらず飛べないことを不自由に感じたりしていないように
  • 「ハンドアウトはプレイヤーの技量の平均化という点で有用であると言えそう」と、plb3
    • と同時に、作品世界外へ投げる量や内容の調節をうまくすれば、GM とプレイヤーの技量のバランスをとるためにも使えるのかな
    • バラスト的用法?

1回も TRPG のプレイ風景を見たことないのにこんなに好き勝手書いています。TRPG は視点のメタ的な往来をする遊びでもあるので、大塚英志じゃないけど、創作のヒントになるんじゃないかなーと思って、そこに興味があるのです。ゲームについて認識の間違いがあったらぜひ指摘していただきたいですが、TRPG そのものについてはちんぷんかんぷんなので、もし話題が継続するようであれば、あくまでゲーム周辺のことではなく、創作周辺のこととして触れていきたい。そのへんご了承いただければと思います。

acceleratoraccelerator2007/12/23 00:54はじめまして。
このブログの運営方針として、このような部外者のコメントを歓迎しているのかどうか分かりませんが、
ゲームについての認識の間違いがあれば指摘して欲しいということですので、少し書かせてくださいませ。
もし、運営方針として許容できないようであれば、遠慮なく消していただければと思います。

TRPGのゲーマーの中では、ハンドアウト関係の話はしつくされている感があります。
extramegane様が指摘されたとおり、確かに旧来の遊び方を好む層と新しい遊び方を好む層に別れ、
新しい視点はなく、お互いの主張を繰り返すだけのように思われます。残念ながら。

しかし、僕の印象では創作に親和性があるのはどちらかというと新しい遊び方です。
TRPGの情報のソースが古い遊び方を好む層だったせいかもしれませんが、
そちらよりの視点でこのエントリーが書かれていることが個人的には不思議です。

以下、なるべくゲームの部分は省略しまして
TRPGの創作的な面を強調してextramegane様の疑問に答えていきたいと思います。

○自由度
今、編集(もしくは読者)と作家が相談しながら創作する場合を想定してください。
編集から以下のようなことを要求されるのは不自由だと思いますでしょうか?
□4章構成でだいたい起承転結にして欲しい
□若い女性の登場人物を出して欲しい
□親と子の対立を含んで欲しい

僕はこのような要求を特に不自由だと思いません。むしろその設定を良く生かす方法で物語を考えます。
ハンドアウトでGMがPLに要求するのはこの程度のことであって、
プロットを1から10まで細かく決めて、その通り書いてくれと要求するものではないのです。

また、ハンドアウトを渡すのはゲームの始まる前なので相談して変更することが可能です。
どうしても女性キャラをだしたくないなら、そういえば編集は折れるかもしれないということです。

また、すこし状況を変えて二人で共同で作品を書く場合を考えましょう。
このとき1章ずつ、交互に書いていくことにします。
ハンドアウトのあるなしは、最初にプロットについて話し合うか否かに対応すると考えられます。
こうやって二人で書く場合、気をつけなきゃいけないのは、お互いに他人の伏線をつぶしあってしまうことです。
これをまもってくれれば自分の伏線がつぶれないということを最初に話あったほうが、
伏線をつぶすかつぶさないかびくびくしながら書くより、自由に自分の話を展開できるのではないでしょうか。

つまり、TRPGにてもっとも不自由な点はGMがどういうシナリオをどこまで用意しているか分からないため、
あまりにとっぴな行動をとりすぎるとお話が破綻してしまうその境界が見えないことです。
その境界をはっきりさせたほうが、自由に動ける、つまり自由度が増していると僕は考えています。

GMの領域PLの領域に関しましても、単に分担の線をしっかり引いただけの話だと思います。
ハンドアウトがなくても、究極的にはGMの展開に乗らなければ話が破綻するだけです。
新しい遊び方は話を破綻させる自由度は手放しているかもしれませんが、そんな自由はあってもしょうがないと考えています。

extramegane様は二つの遊び方はもうまったく違うものなので分裂したほうがよいとおっしゃってますが、
僕は一段階抽象化してしまえば古いダンジョンハックも新しいドラマチックな遊び方も似たような作り方ができると考えています。
ダンジョンの一部屋に1イベントを対応させたり、荒野の探索と人間関係図の探索を対応させてもいいですし。

最近のTRPGシステムは、人間関係の変化などをゲーム的に取り扱えるようになっており、創作者にも刺激的なギミックが数多く含まれています。天羅WAR、ダブルクロスなどのルールブックの中身を見てみることもオススメいたします。

extrameganeextramegane2007/12/23 21:42わざわざありがとうございます。
新旧のよさを融合して、よりすばらしいものができるなら、それに越したことはないと思います。そのうち時間ができたら、いくつかのルールブックを読ませていただこうと思います。アドバイスありがとうございます。
古いほうに肩入れをしているつもりはなかったのですが、そういうふうに読まれましたでしょうか。以下、判断材料が少ないながら、いま考えていることをそのまま書きます。
いわゆる小説のような創作文芸の袋小路みたいなものを感じております。新しいTRPGには、それを突破する可能性があるように思います。新しいTRPGをこうして外部から眺めていると、近代の小説的な面白さではない、神話的、民話的な試みに見えてくるからです。
制約について。ストーリーを作る目的での制約は、むしろ刺激になると思います。それを否定しません。ただ、話が破綻するかもしれないギリギリの状況から大団円へ持っていくことにも、ゲーム的な娯楽性があったのじゃないかと思っていたんですね。破綻の可能性を下げてしまっては、ゲーム的なかけひき(そして協力)を捨てることにつながりはしないか。そしてゲーム的娯楽性より、ストーリーの完成を目指すことを目的にしているように見える、むしろストーリーに参加することが目的にすりかわってしまっているのではないか? ……というのが、両者の「ゲームとしての」差異に見えるわけです。
新しいルールのTRPGの可能性には魅力を感じていますが、破綻の可能性を恐れるのは個人的に好みではないかな……。破綻したものが必ずつまらないかといったら、そんなことはないと思うのです。
セッション開始時にどのような縛りを設けても、壊そうと思ったら壊せてしまうじゃないかとも思います。新旧どちらもそうなので、これは「創作としての」類似点だと感じています。どちらにせよラストに到達するために参加者が協力しなければいけないのは確かです。しかし途中でハラハラできるのはどちらでしょうか。最初の決定事項が少ないほうだと思います。きっと古いユーザーが敬遠するのは、そこですよね。
ぼくはゲーマーではないのですが、古いユーザーの気持ちもわかる。でも、既存の物語を超える新しい何かが出てくる可能性を感じるのは、新しいTRPGや、ケータイ小説や、ライトノベルだと思っています。それらを外部から眺めていると、原始的な場所へ回帰しているように感じるからです。破綻可能性の低さではなく。近代の創作とは、別の進化の道を歩めるはずだと確信しています。

acceleratoraccelerator2007/12/24 11:26長文返答ありがとうございます。

コミュニティ間の対立の構図の現状認識に齟齬を感じますが、TRPGの業界の話をあんまり詳しくしてもしょうがないですし、正直しょうもないので省略いたします。言えば言うほど身内の恥をさらすことになりかねません(笑)。 

extramegane様が古いゲーマーの気持ちが分かるとおっしゃっているのは
”登場人物が本気であがくことにより物語のおもしろさ”ではないかと推察いたします。

これはハンドアウトうんぬんよりも、GMがどれだけ難しい問題を出すかに強く拠ってくると思います。
ハンドアウトというのは、せいぜいその問題文をちゃんと伝わるように書く技法であって、問題の困難度合いとはまた別のものです。
僕が前のコメントでいった破綻というのは、問題文が伝わらないことによっておこる破綻のことです。
ハンドアウトのあるなしで、問題解決の難易度が変わるわけではないことに注意してください。

○TRPGと創作、自分では変更できない制約や課題を生じる構造

最近創作者の中でTRPGを見直す動きもあります。
http://ga3.gagaga-lululu.jp/talk/02/
この中で言われているのは、ルールなど自分がどうにもできない制約がある中で創作をするほうが良い作品ができるというものです。
複数の人数で創作する場合には、自分にはどうにもできない制約が生じやすいと思いますので、この意味でもTRPGに注目するのはおもしろいですね。
また、創作の場合には主人公の能力も解決すべき困難も両方一人で決めるので、
課題が難しい場合に主人公の能力や努力を増やすのではなく課題の難易度そのものを下げてしまうことがあるのかもしれません。
(このあたり全くの想像であって何も根拠はありません)
そんなときGMが課題を決め、PLがそれに答える形式のTRPGは課題達成のためのドラマを促進する側面があるのかもしれませんね。

○小説と物語
ここまでの話は、僕がそれなりに理屈を理解しているものでしたが、
”小説と物語の違い”や”近代の創作とは別の進化”という話になるとまったく考えはありません。
ご存知かもしれませんが、
http://kara-sen.cocolog-nifty.com/buntai/2005/05/post_35b4.html
http://homepage1.nifty.com/shimada_lisa/knife/stry&nvl.htm
に関連する話題が話されていると思います。
僕にはいまいちその内容が理解できませんので、紹介のみですが参考になさってください。

extrameganeextramegane2007/12/25 08:51acceleratorさんが丁寧にコメントくださるので、本当に感謝しています。
少々忙しいのでこちらからのお返事が遅れますが、ご容赦ください。

2007-12-20

創作からみたハンドアウト

| 06:33 | 創作からみたハンドアウト - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 創作からみたハンドアウト - 論理兵站 創作からみたハンドアウト - 論理兵站 のブックマークコメント

b:id:another さんから id コールされたのでお返事しようと思います。はじめてコールされたので興奮。

no title

TRPG についてのエントリーでした。

まず情報を整理します。その後に、近頃は創作や虚構の周辺で起こるものごとについて考えたりしゃべったりすることが多かったので、そっち方面からハンドアウトについて感じたことを箇条書きにします。

立場を表明しておくと、TRPG の経験と知識がないので、とくに思い入れはありません。ただ、古きよき TRPG のゲーム的娯楽性を志向することに共感は覚えます。TRPG を共同で創作をする行為と考えると楽しかろうなあとは思います。全面的に「やりてー」っていうわけではありません。

  • 元エントリーからわかったこと
    • ハンドアウトというものがあるらしい
      • 「修学旅行のしおり」みたいなものらしい
      • TRPG の参加者がハンドアウトに託しているのは、セッションの進行をスムーズにするための予備知識、そして追加設定という認識でいいのでしょうか
    • 従来の TRPG にもストーリーがあったとはいえ、重要なのは GMPC の知力のせめぎあいだったらしい
    • ハンドアウト以降は、キャラクター設定や舞台設定、その場の状況などの点において、GMがお仕着せする部分が増えたらしい
      • ハンドアウトを利用した楽しみ方を必要とするユーザーが増えていった歴史を持っているらしい
      • (この状況なんかに似てるんだよなー、いますぐ思い出せないけど)
    • ハンドアウトを利用すると「ゲーム」から「演劇」へ近づくらしい
      • 予定調和を体験する行為
    • 新旧ユーザー間に軋轢があるらしい
  • 元エントリーからわからなかったこと
    • この傾向がいつから顕著になったのか
    • ハンドアウト派が何を魅力だと感じて TRPG を遊んでいるのか
      • 演じることだけで、ゲームとしての楽しみは少ないのか
        • そうでもないような気がする
      • リプレイ小説を読むだけではだめなのか
        • たぶんそれでは抜け落ちる何かがあるのだろう
    • ならば TRPG と即興演劇に分裂すればいいようなものなのに、なぜいまだに同じものとされているのだろう
      • 乗っ取られた?
    • ハンドアウトの語源がわからん
  • 自分の知識(20年くらい前の TRPG やろうぜ的な本を読んだことがあり、そのうろおぼえの記憶)
    • 「シナリオメイキングには押しと引きが大切だ」みたいなことが言われていたはず
      • 導入部分の作り方ですね
        • 引きっていうのは依頼が来たり賞金首のポスターを見たり、PC の自由意志を尊重し、行動を期待する方法
        • 押しっていうのは刺客がやってくるとか閉じ込められるとか、PC の自由意志でなく状況が進んでしまう方法
      • いわく、「引きだと PC がついてこないことがあるが押しばっかりでも飽きられる」
        • 当時から導入部の難しさは問題になっていたんだろうと推察される
        • あるいは PC の自由意志をどう扱うかの問題
      • このあたりはゲームだけじゃなくて小説なんかでも応用できるはずと思って読んでた
  • 思い浮かべたこと
    • TRPG におけるゲーム的娯楽性でない部分の楽しみというのは、分担して創作することにあるのかな
      • 基本的な分担は、GM が世界の創造を、プレイヤーが PC の創造を担当する
        • ハンドアウトによって分担が崩れ、境界がシフトする
    • 起こっている現象は、GM 裁量の拡大
      • プレイヤーは自由意志の一部を GM に奪われた形になるが、そのことに対して不満はないのだろうか
        • 「用意されたシナリオ内を自由に行動すること」より「段取りよく進めること」が重視されているのか
        • コンシューマーのビデオゲーム機でプレイする RPG が持つ不自由さを、必須のものとして感じているのだろうか
    • 創作で例えたら「作者が言い訳をしている小説のあとがき」に相当するかも
      • あるいはブロガーに対して、中の人のプライベートを根掘り葉掘り質問しちゃうような無分別
      • これを単純に悪である、不恰好であるという立場を私はとりませんが、反感が起こることも理解できます
    • アメリカ的な遊び方から日本的な遊び方への変容とも考えられるか
      • キャラクターの特徴を表すのが数値であっても言葉であっても、ルールさえよくできていればゲーム的娯楽性を備えることは可能な気がする
        • ルールに乗っ取って演じきることを目的としたゲームっていう形も、ありえるんじゃないかと
          • たぶんそういうのもあるんですよね、でもおそらくゲーム的娯楽性を欲さないプレイヤーが多いから問題意識が発生するんだろうと推測
        • たしか数値やサイコロを使わない TRPG があるんでしたっけ
        • 問題は「演劇的になったこと」ではなく「プレイヤーがゲーム的な楽しみを求めなくなったこと」なのか
          • そのことについて「それらはあくまで付加価値であって、主体ではなかった筈なのだ」と書かれている
    • 元のエントリーには「ライトノベル、或いは18禁ゲームの変化と一致するように思う」と書かれているが、先にファイナルファンタジーを連想した
      • amazonレビューが面白い - 今日も得る物なしZ
        • これ何回読んでもおもろいわ
          • 一本道 RPG に慣れてる人にとっては TRPG のゲーム的娯楽性なんて邪魔なのかもしれないなあと推測
      • 二次創作、あるいは動ポモで扱われているようなループする物語の普及は、関係ありそうな感触もあります
        • 「変化」っていうのは、そのことを指しているのかな?
    • どうしてシナリオ内で処理せず、ハンドアウトという作品世界の外側を利用するのか
      • PCが行動するための動機みたいなストーリー上で重要な要素を、なぜプレイヤーの存在する階層へ投げてしまうのか
        • もし参加者がそれを望むならば、シナリオ内だけで解決できる問題かもしれないとも考えられます
          • もしプレイヤーがキャラクターの背景、生い立ちであるとか、トラウマであるとか、弱点であるとかをきちんと作っており、かつ GM がその人物の背景を利用して新しいシナリオを作れば、ハンドアウトでメタに逃がさなくても、作品世界内で完結できるように思うのです
            • あくまでこれは部外者の考えであって、きっと実際のプレイではうまくいかない理由があるのでしょう
      • シナリオ制作、キャラクター制作の逃げではないのか
        • なるほど、ライトノベルが例として挙げられているのは、「創作の送り手と受け手が共有している架空世界の情報」を省略することにつながるからなのか
          • ライトノベルやケータイ小説と同等のものだと捉えれば、ハンドアウトをプレイヤー階層に投げることは卑怯でもなんでもなく、ただそういう様式なのだということになる
          • 背景を共有していない人にとっては、閉じたごっこ遊びに見えるかもしれない
          • 「ゲーム」としての TRPG は開かれているが、「演劇」としての TRPG は、ターゲット以外の人にとっては、閉じているように感じられるだろう
            • 少なくともライトノベルやケータイ小説がターゲットを絞っている程度には閉じている
    • 当初の TRPG が日本でいまいち普及しなかったっていうのも、「ゲーム的娯楽性」より「ロールプレイ」が主眼になってしまうと、閉じたごっこ遊びに見えてしまうっていう理由が、もしかしたらあったのかも
      • TRPG を支える主流世代がそういうユーザになったと見るべきだろうか」とあるように、この転換がユーザー人口のブレイクスルーになったのかなと推測
        • やはり日本において創作と受け手の関わり方が変化したのだろうと思うと感慨深い
    • 世界のルールを登場人物に開示する行為であると考えたらチート的?
      • 世界のルールを開示するのは登場人物に対してではなく、あくまでプレイヤーに対して開示するわけなんだけど、プレイヤーの多くは階層について自覚的なんだろうか
        • 最近の若者は、中の人とウェブ上の人の分別がきちんとできている人が多い気もするけど、どうなんだろう
      • 情報開示をチートと捉えることによって、ハンドアウトへの反感が現れることを説明できるか
    • 予定調和を体験することっていうのは神話っぽい?
      • あるいは祭、神楽、奉納のような再現を目的とするイベント
        • RPG の出身国、アメリカに神話がない(とされている)ことがどう接続するか
          • そいや大塚英志が TRPG についてよく言及するよな
        • このあたりこそ、ライトノベル、ケータイ小説とともに考えたほうがよさそう
          • ライトノベルで、作者と読者の共有する認識が省略されていること
          • ケータイ小説を構成する要素の民話っぽさ、ひとつの演目を別の演者が演じているっぽさ
          • ここを示唆するために b:id:anoter さんはコールしてくれたに違いない
            • ありがとうございました。考えることが増えました

extrameganeextramegane2007/12/20 20:46自由度というかインタラクティビティの高さ順に並べて、
即興演劇>TRPG>TRPG(ハンドアウトつき)>小説
というのを思いついた。

extrameganeextramegane2007/12/20 21:28あとあれだ、ビデオゲームの RPG の主人公というか勇者に、初期設定の名前が与えられているか否か。

extrameganeextramegane2007/12/21 08:15TRPG なのに一本道シナリオを要求する GM が存在するという話を聞いた。そういう GM がいるということは、プレイヤーが許容しているのだろう。id:plb3 氏は、どんなゲームでもプレイヤーは次の行動を決断する必要があり、その結果がゲームとしての楽しみを作るが、世界設定、シチュエーション、人物設定などが用意されていると、決断しなくて済んでしまうケースが発生してしまうという。決断しない場合、セッションへの参加というより単なるコンテンツ消費になってしまう。規定のルートをなぞるだけの場合、GM が人間である必要もプレイヤーが参加する必要もなくなってしまうのではないかという疑問が生まれる。もしそこに人が集まるのだとすれば、ストーリーをなぞる行為に何らかの意味があるはずだ。

extrameganeextramegane2007/12/21 08:36仮定の上の推測になってしまうのですが、一本道を許容する参加者が求めているのは「集団に共通する世界を持っていることの確認」なのではなかろうか。

2007-11-12

sunagi さんへの返信

| 17:56 | sunagi さんへの返信 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - sunagi さんへの返信 - 論理兵站 sunagi さんへの返信 - 論理兵站 のブックマークコメント

第二回ファック文芸部杯に思うことあれこれ - やや最果てのブログ を読みました。

第二回ファック文芸部杯への異論について、sunagiさんは「読まれないブロガーのルサンチマン」という要素を提示してくれました。

私は、それについて思うところがあります。


「読まれないエントリー」が読まれないのは、それを書いたブロガーがつまらないからでは、絶対にありません。

xx-internet のいうところの「いま、死ににゆきます」が大量にブックマークされている現状にも一因があります。

自覚のない「注目されたい気持ち」が、ブックマークを寡占している。ひょっとして大勢に注目されたい気持ちでなかったとしても、だれかひとりにだけ伝わればいい内容だったとしても、一旦投稿してしまえば、anond は無慈悲に大量の衆目を浴びせる可能性を持つ仕組みです。anond 利用者がこのことに対してどのような考えを持っているのかわかりませんが。


ブックマークが集まるのは、ゴシップ的なものばかり。

個人がブックマーク行為を重ねることとは別に、ブックマークの全体は良くも悪くも稚気の権力になります。

デリケートな記事に過度の注目が集まることが、必ずしもいい結果を招くとは限りません。

第二回文芸部杯は、「優しいブックマーク」が集まる記事に対しての問題提起でもあるでしょう。


また、読まれるブロガー xx-internet のエントリーであっても、部内の私の視点からすると、「そんなにブックマークが集まるようなエントリーじゃない」と思えるもののあるし、逆に「どうしてこのエントリーにこれだけしかブックマークがつかないのだ?」と感じるものもあります。

不均衡があるのです。これは持たざる者の視点ではないかもしれませんが、持つ者たる xx-internet が、ある種類のエントリーばかりにブックマークが集合してしまう傾向に対して異議を唱えることは許されてしかるべきです。

xx-internetも、自らに降りかかったその不均衡な現象と戦っているのだと思います。私はその異議に対して賛同し得ます。


sunagi さんは討伐という言葉をお使いになりましたが、第二回ファック文芸部杯で討伐する対象は、すべてのブロガーの中に巣食ったブックマーク権力への悪しき依頼心ではないでしょうか。

ブロガーの心の中にいま言った依頼心があることを明らかにする手段として、第二回文芸部杯を使えないでしょうか。自覚的でないブックマーカー、いやらしい記事にひきずられている多数の優しいブックマーカーに対し、第二回ファック文芸部杯は、少しでもそのことを伝える手段にならないでしょうか。

ブロガーはブックマークの束縛から自由になれるのではないでしょうか。


少なくともファック文芸部員である私は、優しいブックマークが集まってしまう現象に対して、陰惨な気持ちを抱いています。エントリーにではなく、ブロガーにではなく、ブックマーカーに対してではなく、ブックマークが集まる現象そのものに対してです。

それは sunagi さんも同様のことと思います。

敵は「ブックマークを集めるブロガー」ではなく、「無自覚にブックマークを集めるエントリー」であり、特にその中でも「人の優しい心を釣って優しいブックマーカーを引き寄せる無自覚なエントリーを書いてしまいかねない自分自身の弱い心」だと思うのです。

そのためにゲリラ戦に見えることもあろうかと思います。

sunagi さんはファック文芸部と共闘すべき時ではないでしょうか。


また、ファック文芸部をファックしたいならいつでもどこでもできるはず。と、心の xx-internet が申しておりました。ファック文芸部のファックは、ファックする者という意味ではなく、ファックされる者という意味だと私個人は認識しております。g:neo は、ファックの因によって創作の果を成す器官です。

sunagi さんが第二回ファック文芸部杯に参加したら、たぶん私個人には勝てます。それではご不満がおありでしょうか。

また、もし入部すれば寝首をかく機会も増えましょう。私の首は困るので、 xx-internet の首でお願いします。その節には、お声をおかけいただければ、協力することもやぶさかではありません。

トラックバック - http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20071112

2007-11-10

フィクションのことを嫌わないでいてあげてください

| 15:51 | フィクションのことを嫌わないでいてあげてください - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - フィクションのことを嫌わないでいてあげてください - 論理兵站 フィクションのことを嫌わないでいてあげてください - 論理兵站 のブックマークコメント

はじめに

本稿の目的は、knephin_steg さんへの回答です。


ネタとか釣りとか気にしない自分でも、ブクマ数かせぎに堂々とフィクション織り交ぜよろしくな文章を書くゼ!みたいな話が出ていた事実を知ると、けっこう萎えるかな。本気で心配したり協力できないか助言する為に情報収集してる自分ばかみたいじゃん。

(中略)

同じファック文芸部のメンバーの面子も該当記事を読んでそういう方向性に記事を起こしてるのだとしたら酷く悲しい。

(中略)

フィクションでも書くゼ!なノリで今いるのなら、あの時の言葉もそんないい加減なもんだったのかなって別の意味での切なさが増す。

http://fragments.g.hatena.ne.jp/knephin_steg/20071109/1194554474

について、「ばかみたい」じゃないことを、悲しくなんてないことを伝えたいのです。

寝ぼけて書きました。

http://fragments.g.hatena.ne.jp/knephin_steg/20071109/1194606529

そんなことも知らず「寝ぼけて書きました」というのはあまりに失礼でした、すみません。

http://fragments.g.hatena.ne.jp/knephin_steg/20071110/1194658121

そんなにおびえないでください。私だっていつも寝ぼけて書いています。そして寝ぼけないブロガーなどいません。そして

ブクマ&TBして下さったみなさん、色々なご指摘ありがとうございます。増田にしろ、ネットとの付き合い方について、自分でもよくまとまってない話なのでもちょっと考えてみたいと思います。気づかせて下さった方々に感謝。

http://fragments.g.hatena.ne.jp/knephin_steg/20071110/1194665727

まだ終わりません。次は私のターン。


まず、この記事が内部からのお返事になってしまうことを申し訳なく思います。この場所からだと knephin_steg さんが疑問に思われていることに対し、正確に答えられないかもしれません。バイアスがかかっているように第三者から見えるかもしれない心配もありますが、それより前に、自己を含む事象を記述することの困難さがあります。

ですからこの記事の内容を信じていただかなくても構わない。なぜなら、あとから説明するように、この文章が本当のことであるかという証明ができないからです。

しかし関係者として弁明をさせていただきたい。混乱をもたらすことだけがファック文芸部の意向ではない(と私個人は考えている)のです。混乱に陥れることは楽しいですが、そもそも anond を混乱させたからといって、もとからある程度の無秩序さを備えた場所がどう変化するかなんて、よくわからない。混乱が目的ではなく、その先にあるものを見たいという希望こそが目的だと言えば、納得していただけるでしょうか。

knephin_steg さんの不安は、きっとほかの人も感じているに違いないと考え、こうしてお答えしようと思い立ちました。私は knephin_steg さんに答えるのと同時に、この記事を読むほかの方々にも伝えたいと考え、これを書いています。

anond にある「本当に存在するのかわからない問題」について想像をめぐらせる心を持つことは、決してばかな行いではありません。おそらく宗教家が考える慈悲についての問題につながり、非常に重要なことだと私は認識しています。その想像こそが大切なのだと私個人は考えています。想像は創作の素材であり、他者を理解する力であり、愛であると信じています。


このグループ日記の「ファック文芸部杯」カテゴリーと合わせてお読みいただければ幸いです。


ノンフィクションとフィクションの問題

たとえば、悩んでいる人が anond で悩みを開陳したとします。

xx-internet の言うとおり、それが事実なのか虚構なのかは決定できません。その記述が現実に存在している誰かの悩みなのかどうかは、前提として誰にもわからない。

その問題について考えるきっかけさえできるのなら、きっかけ自体が現実だろうと虚構だろうと関係ないのだと私は考えています。そこで「騙されている!」と思わないでほしいのです。すでに問題は記事の上に表現されており、事実であるか虚構であるかによって、その問題自体が消えてなくなったりはしません。

knephin_steg さんは、その上で「記述を虚構として宣言することは、本気で悩んでいる人に対して失礼ではないのだろうか」とお感じになったと思います。しかし今回のファック文芸部杯の参加作品が(ひょっとしたら一作も存在しないのかもしれませんが)悩みを言い出せない恥ずかしがりの人が「これは虚構ですよ」と宣言する前提で書いたものではないとも言い切れない。anond の匿名性を利用して発表することを認めるならば、同様に「あえて事実と虚構の区別をつけない態度」をも認めていただきたいと思うのです。


ある悩みについての記事を読んだ人が、同じ悩みを抱えている人がほかにいることを知ったときの安心感。その記事につけられたトラックバックを読んで納得すること。また、その悩みと無縁に暮らしていた別の読者が、そういう種類の問題があることを知る契機として。ひとつの記事には、そのように多彩な価値が含まれています。その価値はノンフィクションでもフィクションでも同等のものであるはずです。

匿名であることによって隠される要素は、「特定の人物であるのかどうか」の情報です。よって「それが誰の悩みなのか」がわかりません。しかし、ある記述が記述者の人格から切り離されることによって、私たちはその問題を個別の問題としてではなく、抽象的にとらえられるようになります。そこで初めて一般的な「誰にでも起こりうる問題」として論じることが可能になるのです。


anond で扱われる問題について、第三者が考え、真摯に反応することは、想像力の素晴らしい使いかたです。「ネタにマジレス」上等じゃないですか。「ネタにマジレス」を軽んじる人には想像力がないと言わざるを得ません。特定の誰かだけではなく、同じ状況にいる多くの anond 読者に対して回答するのだと考えれば、それが事実か虚構かという境界の問題は、瑣末なことだと思います。

前回と今回のファック文芸部杯では、匿名の記事に対して後から署名をするルールになっています。これは事実を虚構であると宣言するのではなく、ひとりだけの事実だったことを、全員に関わる問題として一般化すると把握していただければ、得心していただけるのではないかと思います。


なぜなら、どうやら世の中では「創作より実話のほうが貴重なものだ」ってことになっている。

『一杯のかけそば』が創作でも実話でもどっちでもいいが、「実話だから泣く人間」や「創作だから泣かない人間」というのがいるようだ。そいつらは自分たちが創作に対する差別の心を抱いていることに、まったくもって無自覚。自分の流した涙をひっこめるな。揺れ動いてしまった自分の心に対して責任を持て。

人間の認識している世界は脳内で都合よく再構成されたものだ話を持ち出すまでもなく、そもそも創作は現実の断片を流用したものであり、両者の間に明確な境界はない。

http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20070919/1190205922

これは、以前私が書いた、本気と冗談の入り交じった記事です。

また、次のようにも書きました。

  • わたしたちが認識している世界は、脳内で現実の断片を構成しなおしたものである
  • すべての創作は、現実の部品をリサイクルしたものである

以上の事柄から、次の命題が導かれる。

  • 脳内で認識された現実と創作は区別がつかない
http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20070929/1191058185

たとえ虚構であろうとも、現実の世界に対して作用します。現実へ作用するという一点において、現実と虚構の間に差異はありません。私がフィクションの力を信じているからだと言ってしまうこともできません。正直、ノンフィクションとフィクションの境界についてまったくわからないのです。

いままでの anond をとりまく状況を、境界を自覚していないフィクションをとりまく状況として、私は感じていました。境界が意識されていないがゆえに、ノンフィクションとフィクションの境界がぼんやりと存在していたのです。積極的に現実と虚構の区別をつけないことが、anond に対してどのような影響を与えるのか、あるいは与えないのか。このことが私にとっての興味の対象ではあります。


第二回ファック文芸部杯anond からの視点で観察すると、現実と虚構の境界線がどういうものであるのか、あるいはそれ自体の有無について自覚するように働きかけるものと捉えることができるでしょう。そのことについて読者と投稿者が自覚的になり、それを気にしつつ anond に参加することが、anond 上で扱われている問題の所在をよりクリアにすることにつながればいいなと願っています。


名を示すことと名を隠すことの問題、ブックマークとの関連

以前から xx-internet は、名を隠す問題や、人格と名を分離して考えること、それがもたらす世界について意識的でした。前回のファック文芸部杯も似たようなルールで行われました。

しばしばブロガーは(あるいはほかの言論を行うすべての人は)、名前が浸透してしまうことによって、あるいは名前が売れていないことによって、不当に高く、あるいは低く評価されます。本人ではないので正確なところはわかりかねますが、どうやら xx-internet は、名前を切り離した著作物が、その質によって正当に評価されるべきだと考えているようです。

その考えかたは、(部員個人それぞれがその考えに与するかは別として)ファック文芸部内にある程度は浸透しており、おそらく部員の多数はブックマークを得ること自体を目的にはしていません。すべての記事が名前とは切り離されたところで正当なブックマーク数がつくべきだとは考えているでしょうが、記事以外の評価によって、不当に高い、あるいは低い評価のブックマークなんて、欲しくもなんともないのです。読まれている実感としては、ちょっとは欲しいか。

さらに言えば、文芸部杯にとってのブックマーク数は指標としての役割が第一です。書いた文章自体を評価されることが嬉しいかもしれませんが。ブックマークをおもちゃにすることは「我々はブックマーク数に一喜一憂しすぎてはいまいか」という問題の提起でもあります。ブックマークする行為は、まったく個人の自由です。これは文芸部杯でばかにできることではありません。しかし、ブックマークが集まることの大袈裟さは、滑稽で愉快なものです。このブックマーク至上主義のような雰囲気は、からかってやりたいと個人的には思っています。

anond 読者は、ブックマークの数に影響されるべきではありません。自分が真摯に回答しうる問題に対しレスポンスを書くことが大切なのであり、ブックマークは注目するためのきっかけにすぎず、ブックマークの数から必要以上に影響を受けるべきではないと思うのです。anond では連なったトラックバックの数とブックマークの数が比例しません。これはトラックバックとブックマークが別のものであることが認識されているからだと私は考えます。


実名を明かしていないブロガーはすべて、anond のことをばかにできません。anond で開催するのは、匿名をばかにする人に対しての問題提起でもあると考えています。

anond でなければ注目されないこと」はあるかもしれませんが、文芸部杯は注目されることが第一の目的ではありません。そして「anond でなければ書けないこと」は存在しません。anond は悩みを相談する場にもなっていますが、それはたまたま機能がもたらしたことであり、必ずそうでなければならないわけではありません。文芸部杯以降も、その anond が持つその機能は、変わらず存続できるに違いありません。

注目されたくて anond を利用するわけでもありません。第一回文芸部杯のときには anond のような便利な仕組みがなかったのです。


今回の文芸部杯は「匿名で何かを書くこと」に対してのいたずらと捉える向きもあるでしょう。しかし、匿名でしか何かを書けない人への悪意は、毛頭ないのです。なぜならファック文芸部員は、事実と虚構を分別する術を持たないから。それは自らのことを書くときですら同じです。


創作への誘い

で、何が言いたいかというと「はてなユーザーの皆さん、ちょっとこの機会に創作してみませんか」ってことなんです。

http://neo.g.hatena.ne.jp/comnnocom/20071102/p1

comnnocom のいうとおり、今回の文芸部杯は、個人が勝ちに行くものではないと認識しています。催し自体に意義があれば、それが部全体の成果なのです。もっと言えば、創作することによる自己救済が、みんなの役に立ったらいいなと考えているのです。部員は恥しがってそんなこと言いませんけれど。

人は、誰かを救うことなんてできません。しかし、人は自分によって勝手に救われることはできる。そのときに創作行為が助けになることは十分ありうる。私はそう考えています。


謝辞

最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。上記はすべて虚構です。信じないでください。私もほかの部員と同様にシャイなのです。

extrameganeextramegane2007/11/10 16:25knephin_steg さんの自己紹介を読んで一般化に対して思うところがある方なのだなと想像しました。

extrameganeextramegane2007/11/10 16:25それについてはまったく書けなかった。

2007-10-12

jealousdog さんへの手紙

| 04:37 | jealousdog さんへの手紙 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - jealousdog さんへの手紙 - 論理兵站 jealousdog さんへの手紙 - 論理兵站 のブックマークコメント

http://neo.g.hatena.ne.jp/jealousdog/20071009/1191937244

「お題以外」に何をするか悩むということは、「お題」以外のことを書きたい欲求があるということですね。「お題」ではないもの、すなわち外部から与えられたテーマでないものを書きたいのだということが読み取れます。ということは「お題を外部から得ないこと」を欲しているのではないでしょうか。

もしここで手法やテーマなどの提案をしてしまうと、それは「お題」になってしまいます。どんなアドバイスをしても質問の要求を満たせないことになります。真剣に答えようとすると、これは相当な難問です。

しかしおそらく方法はあります。

とりあえず思いつくのが、「お題」を得たときに、それを含まない創作をでっちあげるやり方です。まず「お題」に沿って、連想しながら、演繹しながら、帰納しながら、逆転しながら、誇張しながらアイデアを出したのちに、列挙した事柄のリストの中から「お題」だけを排除し、残った要素だけで創作をするのです。これなら読者は「お題」の存在を感知できません。

それとも、求めることは、そういうことじゃなかったでしょうか。読者に「お題」の存在が知れようと知れまいと、いくら抹消したとはいえ自分が「お題」の存在を知っている限り、そんなんじゃ満足できない感じでしょうか。お仕着せでなくオリジナルのものを作りたいとか、無から有を生み出したいとか、そういう話だったでしょうか。それとも食人祭りの熱気から離れたところで静かに書いてみたいとか、創作発表にまつわる雰囲気についてのことだったでしょうか。

だけど私は思うのです。

「お題」を外部から得なかったとしても、結局は自分の中から湧き上がる「お題」を採用することになるんじゃないのかなーと。そう考えたとき、「お題」を持ってくる場所が自分の外部だろうが内部だろうが、そんなところに優劣はないですよね。ひとまとまりの何かを作るきっかけになる最初のひとかけらなんて、何だって構わないのです。

そんなこと読者にとっては、知ったこっちゃありません。読者からは結果しか見えないのですから。

最初のひとかけらのアイデア制作途中に行方不明になることもよくあることだし、分裂することだってあるし。前作の最後に使った単語から次回作を書き始めるしりとり方式だろうがなんだろうが、完全に自由なのです。言い換えるならばスーパーフリーです。

作者らしさが宿るのは、最初のひとかけらではなく、アイデアの発展のしかただと思うのです。アイデアをこねくりまわしている間に、どれが最初の発想かなんてわからないようになってしまいます。

そんなわけなので、「お題」を採用するか採用しないかにこだわらないことこそを、おすすめしたいのです。

ところで「お題以外」で何かをしたいという言葉を裏返すと、ひょっとしたら、すでに jealousdog さんの心のうちには、書きたいものが存在しているのではないですか?

どんな内容でも、どんな書き方でも、短くても長くても、完成していてもしていなくても、斬新でも陳腐でも、そんなことは気にするようなことではなくて、人が何かを書けば、それが創作なのだと思います。あるいは、書かないことも。

ファック文芸部には書かずに放置されているようにしか見えないグループ日記とか、消されちゃったグループ日記とかがありますが、あれって実はすごいんです。あいつらはスーパーフリーを体現しています。言い換えるならばスーフリです。みんなもっと目を向けるべきだと思います。

今回は一行の質問に答える形で、長文をひねり出して投稿することができました。やっぱり書簡って文豪っぽいですよね! いっぺんやってみたかったのです。やりたいこと以外はやらないのです。やりたくないこと以外をやるのです。

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