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2009-05-19

報告書2のつづき

| 00:02 | 報告書2のつづき - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 報告書2のつづき - 論理兵站 報告書2のつづき - 論理兵站 のブックマークコメント

前回のあらすじ。

思考の放棄を称揚し、駅前全裸銅像を肯定した。


しかし、思考せずに制作された理想的な作品なんてほとんどないですよ。直前のエントリの最後の段は、ご想像のとおりおおかた皮肉です。

「こっちのほうがかっこいいかと思って」のような色気が出るとダメになる。「こっちのほうが売れるかと思って」とか。

少々、屈折している気はします。たとえば、「売れ線だから」という発言は、じつは「やりたいことが陳腐なのは恥ずかしいからとりあえず別の理由を口に出しておくか」かもしれません。

それでも同じです。わざわざ作品外で弁解や正当化をするような創作は、作中での説明が不足している。あるいは作者の覚悟が足りない。

駅前全裸銅像は作品外の情報を読まないことによって初めて素晴らしさが味わえるものだというのに。


駅前全裸銅像は狙ってできるものではなさそうです。

考えずになにかをなせる人間は、そうそういません。思考を放棄できるのは禅の大家かゾンビくらいのものです。

どうしても俗なる人間のやることには意図が混入してしまう。あるいは感情。メッセージ。

なにかを考えた時点で、あるいは情動をこめた時点で、被造物は前述の理想の状態からは、大きくかけ離れてしまう。

どうしてこういう形のものができあがったのか推理できてしまう。

たとえば、既存のメジャーに対する憧れを主な動機として制作されたであろう作品。卒業制作だったり、賞狙いだったり、誰かに評価されようという下心が透けて見える作品。作者本人を慰撫することが目的の作品。

前々回に触れた、詐欺に遭うようなケースの多くは、そういう心理にもとづくものなのだろうと感じる、感じさせられる。まったく悲しむべきことです。

そして他人事では済まない。

私もまた、憎しみから離れられないがゆえに、同じ陥穽にとらわれている。

ルサンチマンによってなにかを作るのは快いことではあるが、制作活動が状況に支配されていることに変わりはない。

憧れではないにせよ、憎しみによって、いたずら心によって、それをなしたのであれば同じ穴の狢。1回ひねってあるだけ。詐欺には遭わないかもしれないが性質の悪さではいい勝負だ。


色気があったらあったで気色悪さを感じて遠ざけたくなるし、なかったらなかったで誰も見向きしないから広まらず観測しにくい。商業的なコンテンツであるのにもかかわらず諸々の事情でヤバいことになってるやつのほうが、まだ人目につくからおもしろがれる。このあたりアマチュアは損です。欠点の指摘すらしてもらえないのです。

駅前全裸銅像は公的なものだから嫌でも市民の視界に入るのにあまりにもありふれていて無視されてしまうという消費のされ方まで含めておもしろいのに、同人誌なんかはこういう構造になることがそもそもむずかしいわけです。

意図しないことが素晴らしいといっても、意図しておきながら意図していないことを装っている作品は見ていられない。

「そんなことどうでもよくなってる状態」は楽しいですが、怠惰によっての、議論を忌避するための、うやむやにするための、ごまかしの「そんなことどうでもいいじゃん」という発言は、私の利益を、全体の楽しさを減少させる敵対者でしかない。

まだまだ悪しき「そんなことどうでもいいじゃん」が幅を利かせています。

私は駅前全裸銅像のまがいものを買うことはできません(駅前全裸銅像は野の花と同じように環境ごと購入して所有してしまうと魅力がなくなってしまうということもありますが、それは別の話です)。


駅前全裸銅像のような無意識の表出は望んで得られるものではないし、望んだ制作された駅前全裸銅像は望まれた時点で理想の完成形からはすでに変質してしまう。逃げ水のようなものです。

理が勝ちすぎる。情が強すぎる。意が邪魔をする。圧倒的な狂気を武器にでもしないかぎり。

社会には情報が溢れています、人間は日々、その奔流に晒されながら暮らしています。

自分のやったことは、はたしてやりたかったことなのか。

環境から、状況から、時代から、潮流から、圧力を受けてやらされたにすぎないのか。

主体をとりまく空気が、主体の心にやりたい気持ちを発生させただけなのか。

うずまくコンテクストが、準拠枠が、創作者が歴史から独立することを許さない。

やりたかったことなのか、やらされたことなのか。

すでにここまでくると、作業は快楽ですらありません。たとえ苦痛であることが明らかであってもいつのまにか手が動いている、創作とはそういうものなのかもしれません。

みなさんはすでにご存知ですが、創作は苦痛をも伴っています。

自らが状況に創作させられていると、背後にあるなにか形容しがたい存在のメディウムであると幻視しても不思議ではない。

やりたいこととやらされていることの区別がつかなくなっていく。

おそらくどちらでもありうる、不可分なものなのだと思います。

そこで、こう捉えてみてはどうだろうか。こう考えることはできないだろうか。

実現できてしまったことは、おそらくやりたかったことなのだ。

中断しなかったのは、やり遂げたかったからだ。

正義感や、崇高な文学的意図や、神の意思や、社会的な義務感など、どんなにクソな薄っぺらな動機でもいい、こうなったらやりたいことをやるしかない。

どうせやりたいことしか実現できない。


環境からの圧力で作者が媒体となり創作する。

なぜ自分なのかと理由を問うことに意味があるかどうかはわからない。

ただ、そのことが実現できる環境にある人物は、さほど多くはない(しばしば先を越されて悔しい思いをすることはある)。

なにができるか。いままでの経験に由来することだ。まったく同じ経験を経てきた人間は自分のほかに皆無だし、似たような経験を経ているからといって出力の形はそれぞれ異なる。

その作者にだけできること、それは確かにある。

自分にだけ作ることができるコンテンツは、自分自身を第一の観客と想定して作られる。

自分が関わったものがおもしろいのは、内輪受け、楽屋を知っているからの補正だけとは限りません。

自分をとりまく状況が、つまり自分が持っている過去の経験がある創作を行わせたと考えれば、自分が関わったコンテンツはまさに自分用に編集されていると言えるから。

作者は作者自身を対象に含めず創作することができない。


自分の関わったものがいちばんおもしろいわ。

そう思うことは悪いことではないはずです。

実現してしまったことが、やりたかったことなのだとすれば。

では、いちばんおもしろいはずなのに、見てもらえないのは、注目してもらえないのはなぜなのか。

他者は自分ではないから。自分の経験を他者と共有できないから。作品の説明ができていないから。

作者は成長していきます。

たとえばここで「宣伝が足りない」と判断して、間違った方向に頑張っちゃう人もいる、内実がともなっていないのに誇大にアピールし、結果的に嘘の広告になってしまう場合もある。逆に宣伝しないのも全体の利益を考えると困ったことになる。

宣伝ももちろん必要なんですが、そのほかの工夫も、まんべんなくバランスよく行うことが肝要。

自分を客観的に見ることができていれば過大評価も過小評価もせずに済むかもしれない。

状況が規定し、それをやるしかないならば、やると決めたならば、それはたぶん正しい、だからこそおもしろいと感じつづけなければ、長い作業を続けることは難しい。どのようなリサーチを行うとしても、最初の鑑賞者は作者本人になるから。


創作するうえで、結果的に主体は、あるひとつの選択肢を採った。

選択しなかった、ほかの可能性を捨てた。なにかを選ぶことは、ほかのなにかを捨てることです。

ある人にとっては誇りかもしれない、別のある人にとっては利益かもしれない、全体の中で自らが生き残るための切実な事情があるかもしれない、あるいは十分な選択肢を用意できぬ発想の貧困さがあったからかもしれない、創作者は、選択します。

ある時点をもって完成とするかどうかの判断も、これに含まれます。これ以上手を加えないことにする選択をしているわけです。

選んだ結果に満足するしかない、満足できない場合は諦める。

ベストを尽くしたのであれば、これはもうしかたない。

ベストを尽くせなかったと自覚するなら、次によりよい創作をやるほかない。

詐欺にも遭えばいいし、混乱すればいい。

環境が許す限りにおいて、やりたいことをやり、その次はやり残したことをやる。

どうせ表面的なところ以外に意味なんかないんだし、受け手に届かなきゃ勝手に捏造される意味すら発生しないし、だいいちあなたはテレパシー能力を持っていないので発表しないと伝わらない。

あなたの環境が、あなたの歴史が、あなたの過去の経験が、現在のあなたに「やれ」と言っている。

extrameganeextramegane2009/05/19 00:02売れるかどうかや僕が買うかどうかは別ですけど。こんなことを考えて作られたものが地方の名士の自伝以上におもしろいわけがありませんから全部なかったことにしてください。うんこうんこー。

y_arimy_arim2009/05/19 16:41注釈二つが興味深かったです。
・「読解力」は、書き手が佐藤亜紀であることに影響を蒙るのか否か。ぼくは「あの佐藤亜紀の発言であることに注意」とブクマで述べていて、これはファ文におけるextramegane氏の理念の正反対かもしれませんね。
・「昨日の自分は現在の自分自身が作り出した虚構です」これは素晴らしい。銘記しておきたいです。(でも『現在』の範囲は?)

extrameganeextramegane2009/05/19 16:58グループ日記のコメント欄は日付ごとなので混乱しますね…。ごめんなさい。
たしかに自分も「佐藤亜紀だから」っていう属人性を気にして読んだところはあります。でも、あの文章だけ独立していてもきちんと読み取ることができるといえばできるのですね。どっちでも構わないのじゃないでしょうか。コンテクストはヒントに過ぎないというか。コンテクストを知っている人にとってはサービス問題になる、というか。
現在の範囲は「時間の最小単位」または「認識、意識できる時間の最小単位」のような気がしているのですが、不勉強なのでよくわかりません。

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2009-05-17

報告書2

| 03:43 | 報告書2 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 報告書2 - 論理兵站 報告書2 - 論理兵站 のブックマークコメント

日本の駅前には全裸の銅像があって、それに対して「不謹慎だ!」という声もあまりなく、みんなはそれに無関心です。

駅前のロータリーとか、ぐるぐる回るタクシーとか、鳩とか、ミスタードーナツの店舗とか、全裸の銅像はそういう要素と渾然一体となって日本の風景をつくっています。

慣れてしまって、慣れてというか、無意識のうちに、なにも考えることなく受け入れています、全裸の銅像が視界に入ったとき、誰かが何かを考えるということは、ほぼない。


思考の放棄。


どうして裸なのか、どうしてそこに銅像を置く必要があるのかは、誰にもわかりません。

そのタイトルが『太陽』とか『そよかぜ』とか『春のささやき』などである必然性もまったくわかりません。

必要はわからないけど、そこにある理由を想像することくらいはできます。

市会議員がヨーロッパでその町を象徴する銅像を見たから、文化的事業の予算がついたから、たまたま郷土出身の彫刻家がいたから、銅像といえば裸なのは間違っちゃいないから。

全裸の銅像を見て「全裸じゃん」って指摘するのは、子供のすることだから、誰もしない。文化的な生活を送る大人は芸術を解すことになっているので銅像が局部をモロ出しにしていることについてなにも言わない。なにも言わないことが常識になるから、子供もそういうものだと思う。

最初はそんな理由だったものが、だんだん形骸化していきます。

あるいは道祖神なんか性器そのものの象徴だったりするので日本の風景に全裸の像があることは普通なのかもしれない。

そしてオリジナルを忘れていく。新しく建てられた銅像はヨーロッパの模倣ではなく、「なんとなく建っている日本の駅前の全裸の銅像」の模倣になっていく。いつのまにか駅前に銅像が建つ理由は、「隣の町が銅像を建てていたから」でしかなくなってくる。

ヨーロッパの村や町に建っている銅像は、地域にゆかりのある聖人だったり歴史上の英雄だったりするのかもしれないけれど、形骸を輸入し、輸入された形骸は形骸として、どういうわけか勝手に発展していったりする。


思考の放棄。


誰の思考にもよらず、なんとなくそこに存在する銅像は、意味を失い、純粋な物体になります、そもそも日本の景観はこういうものが多い、歴史的建築を残そうというヨーロッパ的な発想がほとんどないから、ビルは無秩序に建っていく、デザインの統一もなく勝手に建っていく、日本の都市は見渡す限り、地平線まで延々とそんな感じだ、電車で移動してもずーっとそんな感じだ。

新宿歌舞伎町や秋葉原の雑然とした町並み、どぎつい色彩の看板、外国人観光客はわざわざそれを見物しにくる、写真を撮りまくる。

それは人工物でありながら自然物といえる、たとえばジャングル、極相林、人間がなにも考えずに作り出したものは、人間の手がまったく加わっていない自然の森と相似形をなす。


思考の放棄はおもしろい。


駅前の全裸の銅像とかね、もう最高。一度気づいてしまうと、もうたまらない。

予算の消化とか人間関係のしがらみとかで、誰もなにも考えてないのに、なんとなく設置される。

芸術作品が存在することはその町の文化レベルを表すものなどではなく、単なる無意識の表出になっている、地方自治体に所属する人間の無意識の集合が駅前の全裸銅像をニョキニョキと生やしていると考えると、これこそがアートなのだと全裸で叫んで走り出したくなるほどだ、もちろん駅前で!

ヒップホップの歴史を放置して形骸だけ輸入し「そういうもの」として独自に発展させていく過程でブラックミュージックとまったく関係ないものになっていったり日焼けサロンが儲かったりする現象と同じように、意味を持たず、意味からかけ離れたレベルに達する、それは非常に興味深い。

思考を放棄すると形骸が伝統になっていく。見方によってそれは強烈な皮肉になっていて、作者が自覚しているパロディよりも力強い。ルーツから離れたところで「それ」は「それそのもの」であろうとする。もはやコンテクストから断絶している。

ここまで前提。

たとえば文芸同人誌を印刷しようとしたとき。

思考を放棄してみる。

ほんとうに印刷しなくちゃダメなのか? そんなことは考えない。考えてはいけない。

この版型でいいのか? そんなことは考えない。

文庫サイズカバーつきのパックがあるから、それにする。それを選択する。思考は不要だ。

そもそも文庫本の歴史とはどのようなものなのか? そんなことは考えない。

この内容は、持ち歩いて読むような類のものなのか? そんなことは考えない。

この内容の小説を文庫サイズの同人誌にすることで、その本自体がどのようなメッセージを発するか? そんなことは考えない。

「そんなことどうでもいいじゃん」ですらない。

メディアを選択する際に、そういった諸問題が常に発生していることなど、まったく関係ないのだ。

作者は、編集者は、考えて考え抜いて形式を選択するのではない。そういうものだから模倣するだけなのだ。

まるで伝統であるかのように、ただの形骸が大きな顔をして、当然のごとく、常識と化している。

物体としての本だけではない。ハード面だけではない。内容を、ソフト面の制作においても、同じようなことが起きている。

文学を模倣し、文学にありがちなテーマを流用し、作者が文学的だと感じている語彙を使用し、まるで文学らしい体裁を整えた作品は、もやは文学ですらないのかもしれないが、アカデミズムに対する痛烈な皮肉であるようにも見えてくる。

先達のファンタジーの道具立てだけを利用し、ファンタジーのように見えるまったく別のものを完成させる。

ライトノベルを模倣し、ライトノベルの模倣をしているうちに、なんだかよくわからないものになっていく。

洞察をせず自覚なしにできあがっていく二次創作はだんだん二次創作ではなくなっていく。

だんだん何をしたいのかわからなくなっていく。そして独自の評価基準が発生する。

そうした商品が大量に並んでいる状態は、たしかに愉快だ。痛快このうえない。背筋がぞくぞくする。

誰かの牙城を、なにかの権威を、ぶち壊していることだけは確かだ。

自分が「それ」をしようとは思わない、まるで思いつかない、自分にはその発想は生まれなかったけれど。いや、発想によって同様のことをしても「それ」と同じ境地にはたどりつけない、無意識の表出こそが真の「それ」たりえる。

完敗だ。

ケータイ小説企画『QuickResponse』は、そうしたものに負けていた。

無意識の表出に対して、本気で嫉妬している。悔しいけれど、応援せざるを得ない。

だからみんな「それ」をするといいと思います。

extrameganeextramegane2009/05/17 03:43前のエントリが反感を呼びそうなので猛スピードで逆方向に突進しました。

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2009-05-14

報告書

| 23:58 | 報告書 - 論理兵站 を含むブックマーク はてなブックマーク - 報告書 - 論理兵站 報告書 - 論理兵站 のブックマークコメント

第八回文学フリマで戦って帰ってまいりました。

みなさまには有形無形のご支援をいただき、われわれ g:bwn は非常に助かりました。

ありがとうございました。


g:bwn は今回、同人誌イベントにケータイ小説およびメールマガジン、ミニブログなどを持っていくという、メディアそのもののファックを行ってまいりました。

山羊が紙を食うという暗喩も用意しましたが、果たして理解していただけたのか不安が残ります。今後の課題としたいと思います。


本日は報告とあわせて、少々ポジショントークなどをいたします。


blogでDo の概念に親しみを持っているみなさんには理解できないかもしれませんが、同人誌イベントには、本の形を捨てきれない人々が多くいらっしゃいました。

お馴染みのテキストですが、もう一度お読みください。

毎日読んでいるあなたは本日2回目になりますがそれでもお読みください。

デス日本研究者の不倶戴天blog

blogでDo と紙の本を出すことには、もちろん差はあります。

しかし、より blogでDo できる社会に変革していくためには、blog以外でのDo がまだ必要なのではないかと実感したことは確かです。

現在の出版界は不況で滅びかねないという危惧があるようですが、なくなることはないでしょう。

もしなくなるようなら、むしろそのノウハウを保護しなければなりません。


こちらの引用文をお読みください。

望月:ケータイ小説だけは、文学フリマで流行っているなぁというのは感じたことがないんですよ。なぜかというと文学フリマというものは、読み手の文化なんですね。本屋には並んでいないような本を求めるコアな読み手が出展者を見に来る。それに書き手というのは同時に良き読み手であって、そういう人たちがこのイベントを支えているんですね。「あんなモンは文学じゃねぇ」という風に思っている人たちが、文学フリマの参加者層なんだと思いますよ。

http://mopix.moura.jp/?p=629

これは文学フリマ事務局代表望月氏の言葉です。

「単著もないくせに」の精神に代表される、紙の本に神性を与える思想、価値観は、出版業界の好況不況とはまったく関係なく、いまだ健在なのです。

驚くべきことです。


私には疑問があります。

そこに神性のようなものを設定し、紙の本の業界に憧れ、紙の本を奉って、紙の本を真似する、あまつさえ blogなど紙以外でのDo を卑下するような人々に、疑問がある。


「あなたの書く文章は、紙の本で発表することが最適なのですか? ほかのメディアを検討しましたか?」

「ひょっとして、紙の本で出すことだけを不動の前提と考え、そこから書く内容を決めてはいませんか?」

こういった疑問がニュートラルな人々の心の中に生じるよう、私は g:bwn を通じて活動していきたいと考えています。


何か理由があって、深刻な動機にもとづいて、そうしているのならば理解できる。大人の事情で。

ただ、無自覚に既存の出版を当然と考えて疑わない方々は、その宗教のような普及力において、ニュートラルの位置にあった人々を引き寄せることでしょう。

g:neo が無言でいる限り、間違いだらけの愛すべき男子は、向こう側へ味方します。

ありもしない紙の本の神性などに憧れる人々が、これ以上増えることは、g:neo の存亡にかかわる重大な事態です。

我々に対する迫害と言い換えてもいい。


これは恐ろしいことです。

「ケータイで文章なんか読めねえ」とか考えている層は、顔を赤らめずに文学とか言っちゃってる子たちのあいだでは、まだまだ一般的です。マジョリティです。

彼らを相手にする際、g:bwn だけでは戦力が足りない。

既存の出版の不採算性が変革され、もし新しい状況に移行したとしても、既存の出版に付随している幻想は残ってしまうことでしょう。


戦況は悪化している。


べつに私はすべての文章がケータイで読まれるべきだとはまったく考えてないですし、紙の本が便利なことも認めます。個人的にも紙の本は好きです。

しかし、すべてのメディアは、執筆者と読者の前に、平等にひらかれていていいはずだ。

紙でも、肉筆でも、印刷物でも、ディスプレイでも、石版でも、粘土板でも、木簡でも、芳一でも、字が書いてありゃ何でもいい。

そこに貴賎はない。

すべて等しく卑しい。

等しく無意味。

等しく無価値。

そのような世界を望みます。

理想主義に過ぎるでしょうか?


どのように社会が変革しても、特権を求める者が残る。

特権ある位置に憧れる精神が残る。

彼らはフラット化を許さない。


理想郷を座して待っているだけでは、blogでDo とか言ってる間違いだらけの愛すべき男子は、絶滅しかねません(たとえばもし私が g:neo の敵対者であれば、g:neo 内に異分子を送りこみ、理念の崩壊を誘う作戦に出ることでしょう)。

既存の出版を滅ぼすことに意味はありませんが、出版することの特権意識は邪悪です。

出版を高みに置く思想が、共同出版など詐欺まがい行為の温床となっています。

特定の恵まれた者だけが出版できる状況を将来まで残し、特権を認め、彼らがそれに安住し、また別の彼らがその地位に憧れるような状況は、blogでDo の精神に反します。

ここで淘汰に従って滅ぶのも、一考に価する選択肢であると思います。

ですが、もし上記の理想郷を望むならば、これらの特権は許されることではありません。

なぜなら、私たちが持たざる者だから。

嫉妬によって、逆恨みによって、彼らを打ち倒したい。


ぜひ文学フリマで共闘を、とお願いしたいところですが、blogでDo が本義の g:neo において、それは敢えて望みません。

賛同いただける同志は、無言のうちに、有形無形の勝手なスタンドプレイを遂行されるでしょう。

興味を持たない同志は、無視するでしょう。

報告は不要です。

それが g:neo です。


以上、これが私の考える兵站のひとつです。


世界を混沌に。

g:neo:id:extramegane

extrameganeextramegane2009/05/14 23:59性病さんに脅されてしかたなく書きました。

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