森のキツネは嘘を吐く このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-01-25

"ケータイ"小説

| 00:11 | "ケータイ"小説 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - "ケータイ"小説 - 森のキツネは嘘を吐く "ケータイ"小説 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ドアを開けてぼくは朝の光の中に飛び出す。冬の空気は凛としていて身が引き締まる。今日も清々しい気分でぼくは駅に向けて歩き出した。歩き出したんだけど、毎日のことながらこの光景には嫌気が差す。何のことかって、携帯電話だ。通りを行く人々は、みんなして携帯電話の画面とにらめっこしながら前も見ずに歩いている。まるで周りで起きていることは目に入らないとでも言うように。

例えばぼくがここで突然ペニスをポロっと出してしまっても、誰も気付かないに違いない。それは儀礼的無関心とは違う。何と言うか、ここ最近、みんなケータイに異常なまでの執着---それこそパラノイアじみた---を見せているように、ぼくには感じられるのだ。家から駅までの道のりも、プラットフォームの待ち行列も同じだ。乗車率200%の電車の中に乗り込んだって大した違いはない。どこもかしこもケータイ、ケータイ。ケータイ片手に生きる人々。一心不乱に画面を覗き込んでいるその姿を見ると、実はそこから怪しい指令が下っていて、それによってみんなの行動がコントロールされているんじゃないかとすら思えてくる。

まぁ、怪しい指令ってのは、ぼくも妄想を逞しくし過ぎたと思う。もしかしたら、よっぽどおもしろいケータイ小説が流行っていて、老若男女問わずみんなでそれを読んでいるのかもしれない。そうじゃなかったとしても、携帯電話から得られる何かがおもしろいからこそ、みんな携帯電話に釘付けになっているんだろうと思う。携帯用のアプリ?それとも特定のウェブサイト?何がそんなにおもしろいのかな。気になる。

ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で首だけをひねって辺りを見渡すと、ぼくの周りの人たちは誰一人として例外なく携帯電話の画面を見つめていた。誰もぼくに注意を払っていない。まぁ、こんな状況だし、ちょっとくらいならいいよね。ぼくは悪いと思いつつも、前に立っている女性の携帯電話の画面をショルダーハッキングの要領で背後から覗き込む。するとそこには、こんな文字列が並んでいた。


「未ふぉーまっと対象発見。タダチニ初期化セヨ」


なんだ、これ。おもしろくもなんともない。というかそもそも意味が分からない。これ、この女性が書いたメールなのかな。だとしたら、いかなる場合であっても関わり合いになるのは遠慮したいタイプだ。

余計なことをしてしまった。そう思ってぼくが顔を上げると、妙な感覚があった。なんだろう、この違和感。さっきまでとは明らかに何かが違う。何が違うのか、その原因を必死に探そうとしてぼくは周囲を見渡す。すると、ぼくの周りにいたみんながケータイから目を離して、虚ろな顔つきと暗い瞳で、ぼくをじっと見つめていることに気付いた---------------------。



ドアを開けてぼくは朝の光の中に飛び出す。冬の空気は寒いばかりだ。今日も憂鬱な気分でぼくは駅に向けて歩き出す。でも大丈夫。だって周りを見渡せば、どこもかしこもケータイ、ケータイ。その光景に安堵して、ぼくは携帯電話の画面に再び目を落とした。

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2007-12-09

2007年12月9日のピンボール

| 23:34 | 2007年12月9日のピンボール - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - 2007年12月9日のピンボール - 森のキツネは嘘を吐く 2007年12月9日のピンボール - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ぼくは今、右手に一本のペンを握りしめ、左手に一冊の本を持っている。村上春樹の『風の歌を聴け』。そしてその表紙に”デレク・ハートフィールドの墓”という墓碑銘を刻もうとしている。こんなことをしたって何の役にも立たないのは分かっているけれど、ぼくはぼく自身の創作に行き詰まりを感じてしまったのだ。ぼくの創作は、今日ここで死んだ。

「デレク・ハートフィールドのはか、はか、はか」

そういうわけでぼくは『風の歌を聴け』をかの偉大な作家のお墓に見立てようとしているのだけれど、困ったことに墓という漢字を思い出せない。普段からキーボードで文章を書いている弊害だろうか。パソコンを立ち上げるのも手間なので、ケータイで調べようとしたがこんなときに限ってケータイは見当たらない。めんどくさくなったぼくは、けっきょく”デレク・ハートフィールドのはか”書くことにした。キーボードの上、『風の歌を聴け』を墓石のように立てる。ちょっと不完全だけれど、これでデレクの埋葬は終わり。ぼくは一人になりたくて、冬の街に散歩へと出かける。


事の発端はこうだ…。



「また創作ちゃんが拗ねてるんだけど、何かした?」

批評が小さな声でぼくに言う。言われたぼくは身に覚えが無さ過ぎる。あの一件に懲りたぼくは、それ以降、彼女に対してひどいことを言ったりしていないからだ。逆に身に覚えがあり過ぎるとも言える。創作は彼女独特のルールでいつの間にか拗ね始めてしまうからだ。ぼく自身に拗ねさせるつもりとかなくても関係ない。彼女は勝手に拗ねる。だからぼくとしては、創作が拗ねたすべての原因をぼくに求めないで欲しいというのが本心だったりする。

でも、ぼくがどう思うかはけっきょくのところ関係ない。これは彼女の主観の問題だ。創作自身がぼくに原因を求めたら、やはり悪いのはぼくだということになる。たとえ圧倒的にぼくが悪かったとしても、彼女が「あなたは全然悪くないわ」と言えば彼女の中ではぼくの非ではなくなる。

というわけで。

ぼくと批評がひそひそと相談していても埒が明かないので、ぼくは創作に聞き込みをすることにした。


「わたしもホットエントリにして!批評ちゃんばっかりずるいよ、も獲得して…。お願いだからもっと更新して欲しいの」


あまりのくだらなさにぼくは心底うんざりした。彼女が拗ねていた原因はどうやらこれらしい。ぼくが批評を横目で盗み見ると、彼女はクスクス笑いながら逃げていった。批評め…。ぼくは彼女にはめられたっぽい。あいつはこれを知っていて、ぼくをこの展開に導いた。批評が言うことを真面目に取り合っても碌なことはないという一文を、ぼくは心の教訓メモに追加することにした。

それはそれとして乗りかかった船である。この問題(とはいいにくい問題)を解決しないと、ぼくらの関係も中途半端なままになってしまう。ぼくは諭すように創作に話しかける。


「あのな、創作。ブクマは別にそのエントリに対するプラス評価という意味じゃないんだ。数字だけだと、いろいろと見落とすものがでてくるんだよ。ときにはけっこうひどいことを言われることもあるぞ。まぁ、ひどいと思うかは主観の問題だけど」

「傷付く?」

「いや。そういう意味では、ぼくは意外と鈍感らしい」


ぼくは他者が書いたものを好き勝手に解釈して、それを批評と呼んでいる。だから、ぼくもぼく自身が書いたものがどんなふうに解釈されても気にしないようにしている。それがどれだけ的外れだったり、誤読されていたりしても。


「それにブクマされるかどうかは、こっちの意図だけじゃないしな…」

「あのね、本当はわたし別にブクマ数には拘ってないの。単純に、もっと大勢の人に読んでもらえるように、少しでもログを残していってもらいたいの」


なるほど。それはぼくも同じ思いだ。書かなければ始まらない。書き続けることで少しずつ多くの目に留まるようになる。だから彼女の願いは、ちゃんと更新して欲しかっただけ。けっきょくぼくたちは同じ方向を見ていたらしい。ぼくは創作もちゃんとやりたいと思っているという話を創作にする。


「悪かったよ、創作。ちょっとほったらかしにしちゃったけれど、ぼくももっときみを更新したいと思っているんだ。とか、そういうのは確約できないけれど、少しでも多くの人の目にとまるようなものを書きたいというのはぼくの願いでもあるから、いつか素敵な物語を紡げるように更新し続けるよ」

「ありがとう。嬉しい」


創作は本当に嬉しそうに笑っている。これにて一件落着。批評にははめられたけれど、この問題がぼくらの関係に暗い影を落とす前に解決できてよかったよかった。

・・・・・・・・・・

・・・・・・・

・・・

回想シーンはこれで終わり。ぼくは今、冬の街を散歩している。

あの日以降、ぼくはずっと創作に向き合っていた。言葉だけで終わらせてしまっては意味がない。ちゃんと彼女の期待に応えられるように、素敵な物語を更新したかった。そう思っていたんだけれど、今度ばかりはちょっと無理なのかもしれない。ぼくは今まで体験したことのないくらいの不調の中にいる。何も思いつかない。いつもならぼくが悩む前にアイディアがぼくのところまで勝手にやってくるのに、今回に限って音沙汰がない。いつのまにか死神がやってきて、ぼくの創作者としての寿命を刈り取っていってしまったのだろうか?

フィクションとぼくの関係はもう終わってしまったのかもしれないけれど、自分自身ではそんなの認めたくはない。でもやっぱり無理なんじゃないか。ぼくのなかで暗い感情が渦巻く。そんな自分に折り合いをつけるために、ぼくは、ぼくにとっての虚構の象徴=デレク・ハートフィールドの墓を作り、一人で散歩に出かけて頭を冷やした。これからのことを批評、創作と話さなければならない。


ぼくは創作を諦めようと思う。


意を決して家に帰ると、批評と創作がぼくの帰りを待っていた。二人の様子、というか創作の様子が変だ。そわそわしてる。一方の批評はいつも通り落ち着き払っている。二人はキーボードの上に置かれた『風の歌を聴け』を前にして対照的な態度を取っていた。よく分からない。

ぼくはまず批評を見た。彼女ならいつものようにぼくに分かり易く説明してくれると思ったからだ。ところが彼女は(彼女にしては珍しく)にこにこしながら創作のほうを見るよう促すだけだった。そこでぼくは創作を見るのだけれど、彼女がぼくのほうを見てくれない。仕方ないのでぼくはキーボードに乗せられた一冊の本を見つめる。


そこには”デレク・ハートフィールドのばか”と書かれていた。


散歩に出かける前、ぼくはもちろん”デレク・ハートフィールドのはか”と書いた。濁点が付加されて、”はか”が”ばか”になっている。批評が批評的に解説する。これはあなたが創作を葬ろうとしたことの否定だ、と。あなたにまだ諦めて欲しくないというメッセージよ、と。「誰がやったの?」とぼくは二人に訊く。創作は答えない。批評は言う。


「もちろん、あなたが好きなほうよ」


批評はにこにこしながらぼくを見ている。創作は赤くなってもじもじしてて、ぼくと目を合わせようとしない。なるほど…。よし、ここはぼくも恥ずかしがらずに、男としてはっきりとした態度を取らなければならないだろう。


「久遠寺涼子?」

ガツンとぼくの顎の辺りから音がして、瞼の裏に星が浮かぶ。どうやら創作に思いっきり殴られたらしい。そのままぼくは倒れてしまう。

「ホントに鈍感なんだからっ!死んじゃえ、ばかっ!」


創作は「誰よ久遠寺涼子って!」とか色々と喚いていて、批評はやれやれといった溜息をついている。しかしまあ、創作も元気になったみたいだし、世はすべて事もなし。ぼくは薄れゆく意識の中、「あ、これって創作のネタになるじゃん」と思っていた。こんなふうに彼女たち2つのフリッパーはぼくを打ち上げ続けてくれるので、ティルトでもしない限り、当分ぼくはゲームオーバーにならずにすみそうだ。

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2007-12-02

ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日

| 21:55 | ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日 - 森のキツネは嘘を吐く ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日は、ひとりで過ごすクリスマスよりも寂しいものである。

2007年12月2日のピンボール

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「ぼくはやっぱり批評を裏切れなかった。彼女とよりを戻すことにしたんだ。だから創作、きみとだけ過ごすことはもうできないんだ。前みたいな友達に戻ろう」

「うそ!だってあなた、批評ちゃんとは別れるって言ってたじゃない!」

「うん…。でもぼくはもう自分自身を騙して君とだけ過ごすなんてことはできない。きみも大切なんだけど、やっぱり批評も大切なんだ」

「そんな…」

「正直に話すよ。ファック文芸部で更新していなかった間、ぼくはダイアリーで批評と過ごしていたんだ」

空気が変わった。それまではちょっと懇願するような感じだったのに、彼女を包むアトモスフィアが怒り出したのがよく分かった。爆発するんだろうな、ぼくはそう思って身構えた。

「ばかっ!自分勝手っ!死んじゃえっ!」

案の定、怒声を発してぼくの彼女、いや、彼女だった”創作”は部屋を出て行った。ぼくは部屋に一人きりになる。

批評はぼくの以前の彼女だ。別れ方は最悪だった。ぼくが一方的に別れ話を切り出して、彼女の言うことは何も聞かずに、ぼくはぼくらの関係を解消させてしまった。そしてそのあと、創作と付き合うことにした。あのときのぼくは、はっきりと言ってしまえば批評に対して不能になっていた。あのときのぼくは、どうしてか彼女と上手く折り合いをつけるということに思い至らなかった。あのときのぼくは、どうしてか彼女と別れなければならないような気持ちに追い立てられていた。そして今すぐ批評と別れて創作と付き合わないと、ぼくはぼく自身に妥協しなければならないような気分になっていたのだ。


くだらない。


自分で自分に意味の分からないルールを設定するなんて本当に馬鹿げている。だってそのルールには理由なんて無かったんだから。けっきょくぼくは批評なしで生きていくことを寂しいと思ってしまったのだ。その結果、今度は創作を傷付けてしまった。最悪だ。ぼくはピンボールマシンの中で落ち着きなく右往左往するボールみたいなものなのかもしれない。ティルトしっぱなしでゲームオーバー。

「でも、あなたが今書いているのだってけっきょくは創作じゃない。わたしも創作ちゃんも結局はあなたの空想の産物でしょう」

批評に電話をかけたら、彼女はそう言ってぼくを慰めてくれた。そうだ、ぼくは今、こうやって創作と批評を擬人化して、創作を仕上げている。そして批評は作品外からの批評的な視点でそれを指摘してくれた。つまり、ここでは批評と創作が共存していることになる。これならぼくは、批評と創作ふたりと一緒に過ごすこともできるのかもしれない。彼女たちを2つのフリッパーに見立てて、まだまだこのピンボールごっこを続けるのも楽しそうだ。とかいって、さっきまで憂鬱になっていたのに一瞬で楽しい想像に溺れてしまうぼくなのだった。現金だね。

「分かってるでしょうけど、創作ちゃんにひどいことを言ったんだから、ちゃんと謝るのよ?」

それを見透かされたように、冷たい声で批評に釘を刺されてしまった。うぐぐ。それは結構ハードルが高い。一度拗ねた創作を宥めるのは本当に骨が折れるのだ(これは比喩ではなく、ぼくは拗ねた彼女に名前も聞いたことがないような関節技を極められて骨を折られたことがある)。どうやったら上手に機嫌を直してもらえるか、ぼくはこれからストーリィを練りに練らなければ。あいつ、ロジックの通ったものが好きだからミステリなんかを書いてプレゼントしたら喜ばれるかもな。

こうしてぼくと批評と創作の新しい共同生活が始まりを告げた。


-------


うん、いい感じに狂ってるかも。何をしたかったのかって、批評ってやっぱりいいよなあと思って今再び批評に接しているということを書きたかった、ただそれだけです。これからはファ文をメインに更新していくぜって威勢よく吠えてたけれど、ダイアリーでの批評と併せて、どっちも同じ意味合いでスーパーフラットにやっていきます。こっちで更新していない間もあっちでの更新はしていて、今日も批評エントリをひとつ立ててきたところです。こういう感じに、批評と創作がクロスオーヴァーしていくようなことを2つのブログの間でやっていきます。

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2007-11-24

自作に対する一顧 『彼女には名前が無い』

| 20:44 | 自作に対する一顧 『彼女には名前が無い』 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - 自作に対する一顧 『彼女には名前が無い』 - 森のキツネは嘘を吐く 自作に対する一顧 『彼女には名前が無い』 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

文字を食べるという概念 - 嫉妬する雑種犬

上記エントリで拙著『彼女には名前が無い』についてちょっとばかり言及されていて、そこで何かを訊かれたわけではないのだけれどこちらが考えていることをまとめてみた。

文字を食べるということにどんな意味を込めたのかといえば、それはやはり読書体験に他ならない。いや、ブログのようなテキストもそこには含まれてくるわけだから、読書というよりは文字を読むという体験と言ったほうが実態に即しているのだろう。この"体験"について、食事を例にとって説明してみる。

食事が身体に及ぼす影響というのは、それはもうダイレクトなものだ。偏った食生活の果てに何らかの病気になるといったケースもあるだろうし、腐ったものを食べれば腹を壊すし、青酸カリを取り込めば死ぬ。そこにはすごく分かり易い影響関係がある。

こういう食事と身体の関係性みたいなものがテキストと思考の間にも少なからずあるわけで、それは例えば他者の書いたテキストを読んで文章自体の美しさやらカッコよさやらに感じ入ったり、そこに込められた感情や思想に共鳴してしまったりとか、そういった類のものだ。もちろんそれはテキストだけじゃなくて、人によっては映像や音楽の場合もあるだろう。

そうやって他者から受けた影響というのは、思考の中で自らの血肉になっていく。そしてそれを吐き出すことで、次にそれを血肉とする者が現れる。そうやって想像力というものは脈々と受け継がれていくものではないかと思う。そういったものを食事に喩えたのだ、あのエントリでは。

『彼女には名前が無い』に直接的な影響を与えた想像力がいくつあるのか*1書いた俺自身にも把握できていないけれど、その中のひとつについてはここに書いたとおりだということは疑いようもないわけである。

そのようにして俺の創作は形作られていく。今までも、そしてこれからも。

*1:あとはミステリのことも考えていた

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2007-11-18

舞城王太郎の文体について / 英語的ニュアンスの導入

| 20:51 | 舞城王太郎の文体について / 英語的ニュアンスの導入 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - 舞城王太郎の文体について / 英語的ニュアンスの導入 - 森のキツネは嘘を吐く 舞城王太郎の文体について / 英語的ニュアンスの導入 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

舞城王太郎の文体を真似るには文中に英単語を散りばめることでもノワール調にすることでもなく、ましてやオノマトペなんかさっぱり関係なくて、日本語を英語的なニュアンスで捉えると上手くいく。というのは以前書いた話。でもそれは「俺が思う舞城らしい文体」でしかない。それを前提にしている以上、これが誰かの参考になるとは思えないけれど、気まぐれにもうちょっとだけ書いてみる。

ポイントは2つ。まずは「主語と所有格」について。

  1. 主語を省略しない
  2. 所有格を敢えて明記する

日本語は主語がなくても成り立ってしまうけれど*1、分かりきった一人称でも省略せずに書く。そして、こちらも日本語では省略されてしまうことが多いが、所有格を明記する。場合によっては、所有格と一緒に省略されてしまった目的語も復元する。分かりきっているがゆえに省かれてしまう言葉たちを敢えて強調することで、文体のしつこさが増す。それこそが舞城王太郎的な文体を生む基盤となるように、個人的にだが思う。

例えば「ぼくは歌う」という文章にこの方法を当てはめると、「ぼくはぼくの歌を歌う」という文章になる。これを舞城っぽいと思うかは個人によるだろうけれど、過剰な感じが醸し出されることは間違いないはずで、個人的にはそういった過剰さこそが舞城文体の特徴だと思っている。

第2のポイントだが、英語そのものではない英語的表現を用いるのも文体を舞城的にする要素と言えるだろう。具体例を挙げよう。

安眠はもう俺の手元からは永遠に離れて戻ってこないのかもしれない。俺にできることはタオルでくるんだだけのまな板みたいに堅い簡易ベッドの上でせいぜい楽な体勢を探すことくらい。

上記は『煙か土か食い物』のEIGHTの中の一節だ。「俺にできることは~くらい」という部分があるが、これを読んで「All (that) I can do is ~」、もしくは「~ is all (that) I can do」などの表現を頭に浮かべた人も少なくないだろう。また、「安眠」を主語とした上記の第一文を読むと、動詞「leave」を用いた英語的なニュアンスを思い浮かべることができるだろう。

加えて以下のような例も挙げられる。

ミドルオブノーウェア。どこでもない場所。大体今俺のいる場所だってどこなんだ?空港の中に決まってる。でもそれはどこかではない。どこか俺のいるべき場所であるわけじゃない。それはどこでもいい場所だ。俺はここにたまたまいるだけでここにいるべくしているんじゃない。俺の心はこんなところでは休まらない。

これは『煙か土か食い物』のONEからの引用だ。「どこか」という単語、もしくはそれに類似する単語が何度も繰り返されるが、これらは意味の上においては明らかに「somewhere」と「anywhere」と「nowhere」に分別することができる。具体的にはこちらのエントリを参照していただくとして、ここでも英語的なニュアンスを用いた表現を見ることができる。

このように、英語そのものではなく、そのニュアンスを取り入れることで文体は舞城王太郎らしいものとなるのではないかと思う。

以上でこのエントリは終わりとなるのだが、さて。舞城王太郎の文体を指して「ドライブ感がある」という評価が持ち出されることがあるし、個人的にも同意する。しかし彼の文体にドライブ感があるとして、それはやはり文中に英単語を散りばめることでもノワール調にすることでもなく、ましてやオノマトペなんかさっぱり関係ないと思っていて、このエントリでも取り上げた"過剰さ"がポイントなのではないかと考えている。考えているのだが、それについてはまたの機会に譲りたい。

【追記】

失礼、オノマトペは関係あるっぽいです。

*1:もちろん英語も主語なしで通じるが

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