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2007-11-09

ハロー、ファック文芸部

| 22:33 | ハロー、ファック文芸部 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - ハロー、ファック文芸部 - 森のキツネは嘘を吐く ハロー、ファック文芸部 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ファ文旧ブログからの転載となる自己紹介エントリ。舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』の批評も兼ねる。旧URLにおけるブクマはこちら。なお、転載にあたって若干の加筆修正を施している。

『ディスコ探偵水曜日』を読んだとき、批評とは名探偵ごっこにすぎないのだろうか、そう思った。

『ディスコ探偵水曜日』は『新潮』に連載されていた舞城王太郎の小説で、物語は迷子探し専門の探偵ディスコ・ウェンズデイの一人称で語られる。彼は和菓子職人の水星Cとともに迷子になった梢の魂を探して、福井県西暁にあるミステリ作家暗病院終了(あんびょういんおわる)邸パインハウスへ向かう。そのパインハウスでは暗病院が奇妙な死を遂げており、名探偵たちがその謎を解決するために集結していた。彼らは一人ずつ順番に自前の推理を披露する。そして彼らの推理はことごとく外れ、推理を間違えた名探偵は目に箸を刺して死ぬ。暗病院の死にまつわる真相は何度も上書き保存され、名探偵の死体は推理とともに重層的に積み上がる。そしてディスコは思考のダンスフロアでツイストもできずに戸惑う。

この作品の連載自体は終了しているけれど今のところ未完で、単行本化の際に最終章を加筆されて完結することになっている。

『ディスコ探偵水曜日』の何が批評的なのか、それはこの作品における名探偵と批評の類似性だ。名探偵は論理で事件を解決する。一方、批評とは作品外の論理を持ち込んでそこに回路を生み出す作業だ。どちらも勝手な文脈を読んで真相を掴んだ気分になっているという点では同じだと言えるだろう。

現実にはすべてを論理で読み解けるなんてことはあるわけがない。自分の行動を逐一すべてロジカルに説明できる人間が果たして存在するだろうか。いないはずだ。自分では説明のつかない気まぐれみたいなアクションだってあるだろう。当たり前だけど、割り算をすれば余りが生まれることもある。しかし、批評を好む人間はそういったものをノイズ=雑音などと呼んだりする。そして彼はそのノイズを排除し、世界と物語にクリアな整合性を求めるだろう。

ウェブは批評的な文字列を世界に向けて発信することを容易にした。そこでは多くの人々によって多くの批評的な視線が生み出され、消費され、生き残り、死んでいく。

『ディスコ探偵水曜日』はそうした状況を滑稽に描こうとしているのではないだろうか。名探偵たちがたったひとつの事象に対して突拍子もない文脈を引っ張ってきていくつもの推理を展開させるこの作品を読んでいて、そんなふうに感じた。そしてこういった批評的な視線すら既に見透かされていて、あらかじめディスコと水星Cの漫才みたいなやり取りによって回収されてしまっているようにも思える。

個人的なことを記すと、『デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド』では、虚構に対して批評的な視線を当てている。つまり、物事をクリアに見渡すことに腐心している。最近「ゼロ年代は俺の嫁」とか言いながら『ゼロ年代の想像力』を追いかけているからか、周囲にも似たような興味を持った人が多い。ウェブ上をその手の視線が飛び交っている様子を見るのがちょっと楽しいし、他の人から見たらぼくもその一部に組み込まれているのだろう。

だからその意味では、ぼくも『ディスコ探偵水曜日』に登場する名探偵たちと変わらない。そして、ノイズを徹底的に排除してそこにはない文脈を読みまくる名探偵たちがどんどん目を失って死んでいく光景は、過度の批評的な視線は視野狭窄になりかねないし、行き過ぎれば盲目的であるということのメタファーに思える。だとすれば、ぼくの批評もいずれ目に箸を刺して死ぬ運命にあるのかもしれない。

そんなふうに、批評だけではぼくの思考はノイズの一斉排除に向かってしまうおそれがある。だからここファック文芸部では、それとは逆のことをやっていきたい。批評が消費する側の視点だとすれば、それだけでなく、創り出す側の視点を用いる。そして両者を関連付けて、2つのブログで二重螺旋のようにフィードバックさせていけたらいいなと思う。

そんなわけで、最後にひとこと挨拶を。

はじめまして、よろしくね。

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