森のキツネは嘘を吐く このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-11-10

彼女には名前が無い

| 22:30 | 彼女には名前が無い - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - 彼女には名前が無い - 森のキツネは嘘を吐く 彼女には名前が無い - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ぼくは字を食べるのが好きだ。小説、雑誌、新聞紙。びりびり破ってばりばりと海苔みたいに食べる。おいしい。でも決して紙を食べるのが好きなわけじゃない。ぼくにとっては紙なんてどうでもいいわけで、紙の質にこだわりは持っていない。紙に印刷された字、あるいは紙に書かれた字そのものがおいしいのだ。ぼくは字に味を感じるという特殊な感覚を生まれつき持っている。例えば米という字を食べるとぼくはお米の味を感じる。牛肉という字は牛肉の味がする。

でも一文字の漢字には味を感じないことが多い。例えば汁なんて文字を食べてもぜんぜんパッとしない。味噌という文字は味噌として定義できるけれど、汁という文字は多義的で、つまりは曖昧なので味もぼやけてしまうのだろう。ところが、これが味噌汁という三文字になるとそれは文字通り味噌汁の味になる。おもしろいもので、味噌という文字だけだと味噌の味で、汁という文字と一緒になると味噌汁の味になるのだ。味噌の味と味噌汁の味なんてほとんど同じだけれど、やっぱり出汁が効いているのは大きな差だ。そういうわけでぼくは味噌よりも味噌汁という文字を支持する。そんなことはどうでもいいか。

ぼくのこの特異体質は共感覚と呼ばれる。文字に色や匂いを感じる人がいるという話を聞いたことはないだろうか。その感覚を、研究者たちは共感覚と呼ぶ。

まだ物心つく前のぼくがしきりに紙を食べようとすることを不安がった両親は、あらゆる内科や精神科や脳神経外科などにぼくを連れまわした。その過程でぼくが共感覚者であることが判明。結果、ぼくはとある研究機関の研究対象となった。さっきの「味噌という字だけだと味噌の味だけど、汁という字と混ぜると味噌汁の味になる」というエピソードはこの研究機関での実験で得られた成果だ。

ちなみに美味しい文字を食べても栄養は得られない。これも研究の成果だ。当たり前だけど、文字はけっきょく紙に印刷されたものなのだ。だからまぁ、焼肉という文字を食べることは焼肉味のガムを食べるようなものでしかないのだ。焼肉の代わりにはならない。それに消化もそんなに良くないのだろう。ぼくは紙を食べて消化器官を傷めてしまうことが多かった。

そんなとき、彼女と出会った。ぼくたちが大学生の頃だから、もう5年前の話だ。ぼくは彼女から「文字ばかりじゃなくてちゃんとご飯も食べなさい」と注意されることが多かった。ぼくは文字を食べることにばかり気を取られて、つい本来の食事を疎かにしてしまう癖を持っていたからだ。さっきも言ったけど、文字を食べるということは取りも直さず紙を食べるということに他ならない。栄養なんて無いに等しいけれど腹はそれなりに膨れてしまう。そのため、文字を食べるのに夢中になりすぎてちゃんとした食事ができなくなってしまうことも少なくなかった。ぼくはたちまちのうちに痩せ細った。だから  は、ぼくの健康を心配してぼくに文字を食べるのではなく、ふつうの食事を採るようにとしつこく言い続けてくれた。いつだって手料理を作ってぼくに振る舞ってくれた。ぼくはそのことに心の底から感謝している。彼女はぼくを文字食から遠ざけてくれた。ちゃんとした食事の大切さを教えてくれた。でもぼくは  の言うことを聞かず文字を食べ続けた。それでも彼女は諦めなかった。ぼくのために新しい料理を覚えてくれて、ぼくの目の前で調理し、ぼくと一緒に食事をしてくれた。ぼくは普通の食事の美味しさを覚えた。ぼくは彼女と2人で食事をすることの喜びを知った。彼女と囲んだ食卓は暖かかった。その結果ぼくは今まで生き延びることができたのだと信じている。すべては彼女のおかげだ。けっきょくぼくは文字食という悪癖を止めることはできなかったのだけれど、彼女の努力によってなんとか人並みの生活を送ることはできた。


そう、あのときまでは。


あるときぼくは、自分にはすごく好きな字があることを発見した。でもそれが何なのか分からない。だからぼくはそれまでやっていたページをベリッと破って一気に食べるという食べ方をせず、一文字ずつ食べてその文字を割り出すことにした。そしてぼくはぼくが気に入った文字を見つけた。見つけてしまったのだ。

ああ、  。ぼくは無邪気すぎた!あんなことは試さなければ良かったのだ。ただの戯れのつもりだったのに、それがこんな結果を導くなんて微塵も考えなかった。ぼくはもうきみの元には戻れない。ぼくの世界は変わってしまった。さようなら、  。もう会うこともないだろう。

それが彼の手記だった。彼のお母さんに見せてもらった、彼の行方を追うために残された唯一の手がかり。

3ヶ月くらい前のある日、彼は突然わたしの前から消えてしまった。その日、仕事を終えて友人たちと楽しい夕食のひとときを過ごして浮かれた気分で家に帰ってきたわたしに降りかかったのは、予想もしなかったできごとだった。

夜中にかかってきた彼からの電話。ふだんならこんな時間にかけてくることもないのに変だなと訝っていると電話口の向こうから彼が暗い声で「ぼくたち、もう終わりにしよう。さようなら」とだけ言って、通話終了。あとに残されたのはわたしとツーツーツーという電子音の繰り返し。一方的な別れ話を切り出されてびっくりした以上に頭にきたので、直接問いただすつもりで彼の部屋を訪れた。せめて理由を言いやがれ!と心の中で怒りながら彼の部屋に向かった。わたしが合鍵で彼の部屋に入ると、そこはもう抜け殻だった。荷物だけ残して、彼は消えていたのだ。

わたしは途方に暮れた。もちろん彼の家族も同じ。みんなで彼を見失ってしまった。

部屋を引き払うとき、彼が残したものはすべて彼の家族が引き取っていった。わたしもそれを手伝った。思い出のためにちょっとくらい何か分けてもらおうかと思ったけど、なんだか形見分けみたいで縁起でもないと思ったので遠慮しておいた。それにわたしには、わたしと彼の思い出がある。そのときのわたしには、彼からプレゼントされたブランドものの名刺入れを彼の部屋に忘れていたのでお手伝いのついでにそれを回収しようという目的もあったのだ。家族と彼の思い出は家族と彼のもの。そう思って、彼ゆかりの物品は何も譲り受けなかった。

ただ、けっきょく彼からもらった名刺入れは部屋からもどこからも見つからず、わたしはそのことを後悔した。代わりに彼の写真とかもらっておけばよかったな。名刺入れは、同じブランドのものを買ってそれを彼からのプレゼントと思うことにして、わたしは自分を騙すことにした。

そんなふうに彼のいない日々を過ごしていたとき、彼のお母さんから電話をもらった。彼の荷物を整理していたら、手記が見つかったというのだ。その中で彼の感情が吐露されているらしい。わたしははやる気持ちを抑えながら彼の実家に向かった。そこで見せてもらったのが先ほどの手記。

彼は文字に味を感じるという彼独特の感覚を持っていて、手記にはそのことが書かれている。手記を読む限りではそれが彼を苦しめてしまったみたいだ。何が彼をわたしたちから遠ざけてしまったのか。彼の家族にはそれがピンときていないようだったけれど、わたしには分かる。いつも彼のそばにいたわたしだけしか感じないのかもしれない。ただの直感でしかないけれど、たぶんこれは正しい。

そんなことを考えながらパラパラと手記のページをめくっていると、一枚の紙切れが落ちた。住所が書いてある。遠い。ここに彼はいるのかな。ううん、間違いなくいるはず。わたしは会社をしばらくの間休んで彼を探すことに決めた。

手記のところどころに食い破られたような穴が空いていることについては、極力考えないようにしながら。


2日後、思っていたよりも簡単に彼の現住所を見つけることができた。人里から離れたところで彼はひっそりと暮らしているようだ。地元の住民らしき人を片っ端からつかまえて話を聞いていったら、しばらく前からこの地域に住み着いた謎の人物の噂を入手することができた。あまり人口の多くない地域だったから噂は容易に広がったのだろう。わたしが話を聞いたほぼ全員がその噂を知っていた。

その地域のはずれに住む人物は、とにかく人目を避けるように生きている。小さな商店街で聞き込みをしたところ、驚くべきことにその人物は食糧品や生活必需品を買いに来ることもないらしい。そんなのでどうやって暮らしているのだろう、というのが地元住民みんなが感じている疑問で、だからこそ、そんな人物は現実にはいないのではないかという噂も根強いようだった。なにせ実際にその人物を見た者はいないのだから。彼が住んでいるとされる家は地元の小学生たちに幽霊屋敷と呼ばれていた。

噂が一人歩きしている。本来ならこんなあやふやな情報、なんの役にも立たない。でもわたしはそれで彼がここにいることを確信した。そして彼がどうなってしまったのかも。わたしは車の中で一晩を明かし、幽霊屋敷に乗り込むことにした。

翌日。朝日の中で見る幽霊屋敷は、屋敷と呼ぶのも憚られるようなプレハブだった。入り口には鍵がかかっていた。窓もすべて閉じられていた。仕方ないので、ちょっと大きめの石を使ってガラスを割って鍵を開けることにした。不法侵入もいいところだけれど、この中にいるのは間違いなく彼だということが分かっていたし、わたしはもういい加減に幕を引きたかったのだ。そして変わり果てた姿の彼に出会った。

彼は部屋の真ん中で紙を口いっぱいに含んで息を引き取っていた。彼は骨と皮だけになっていた。死後どれくらいの時間が経っているのか分からなかったけれど、ふしぎと腐臭は感じなかった。予想していたこととはいえ、この光景を目の当たりにして神経が麻痺してしまったのかもしれない。何せ彼が口に含んでいた紙に細かい字で書かれている数え切れないくらいの無数の文字列は、すべてわたしの名前だったのだから。

彼の部屋は崩れた紙束が床一面に散らばっていて乱雑とした印象を与えたけれど、実際はそれ以外には大したものはなく、だから殺風景というに相応しかった。これで軸の付いた大きな円筒があればハムスターの部屋だなと思って、わたしはそんなことを思ってしまった自分がどうかしていると感じた。

あたりを見回すと部屋の隅にはシンプルな机があることに気付いた。ペンやノートが置かれている。その中に、わたしは彼の手記の続きを見つけた。たぶんここにすべての答えが書いてある。

ぼくが自分の記録をつけるようになって、どれくらいの時間がたっただろうか。今日記すことはぼくにとって最悪の記憶だ。ぼくが食べたあの「文字」について。

ふだんのぼくは、1ページ単位で雑誌や小説などを食べていく。その中でまれに、際立った印象のある味を感じることがあった。その味はぼくを虜にした。あのときのぼくは自分が魅力的に感じている文字の正体を知りたくなって、それを割り出すことにしたのだ。やり方は簡単だ。紙を1ページずつ食べるのではなく、文字単位にまで細分化してページをカットし、1文字ずつ食べるだけ。食べた順番に、この文字は違うとチェックを入れていく。そうして絞り込んでいった果てに、ぼくはその文字に行き当たってしまった。



人。



なんということだろうか。ぼくはあまりのグロテスクに吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて吐いて胃の中のものをすべて吐きつくしてそれでも吐き気が止まらず呼吸困難になって吐瀉物の中にぶっ倒れて喘いだ。ぼくが好きだった文字は「人」だった。ぼくが美味いと思っていた文字は「人間」だった。その事実にただただ震え上がった。そして人間はあんなにもぼくを惹き付ける味がするのだろうかという信じられない思いがした。吐瀉物に混じる未消化の紙片が胃液にまみれてぼくの顔にたくさん貼りついたけれど、ぼくが感じている黒い食欲に比べればそんなの全然不快じゃなかった。

その日を境に、ぼくは誰にも会わなくなった。会えなくなった。恐ろしかったのだ。もし誰かに会ったら現実に誰かを食べてしまうのではないかという恐怖がぼくを捕らえた。恐怖はぼくをあらゆる食事から遠ざけた。文字は当然食べられない。普通の食事をしても文字の味を思い出して吐き出してしまうのだ。そうしてぼくは腹を空かせた野良犬のようになった。

それから何日たったのかは分からないけれど、あるとき、ぼくは朦朧とした意識の中で何かを口に突っ込んでいた。極限に近い飢餓が無意識の行動を取らせたのだろうか。今となってはそれは分からない。ぼくが憶えているのは久しぶりに食べた紙の感触と、そしてぼくを捕らえた魅力的なあの、いやそれ以上に素晴らしい味が口の中に広がったことだった。

ぼくはそれを貪った。久しぶりの食事にありついたのだ。しかもとびきり極上の味。あのときのぼくときたら本当に野良犬みたいだったことだろう。だが何日も胃に何も入れていなかったのに急に紙を食べたものだから、ぼくは盛大に吐いてしまった。そこでようやくぼくは我に返った。吐き出したものを見下ろすと、彼女の名刺が胃液でできた水溜りのなかに浮かんでいた。

笑った。ぼくは声を上げて自分を笑った。ぼくはもう駄目だ。「人」だけじゃなくて、「彼女」を食べてしまった。正直に書こう。ぼくはそれを美味しいと思ってしまった。こうして何も食べないでいれば、いつかはまた彼女と過ごせるぼくの日常に戻れるかもしれないと、ぼくは根拠のない期待をしていた。けれど、もう戻れないどころじゃない。おしまいだ。このままでは現実に彼女すら食べてしまうかもしれない。嫌だ。そんなのは嫌過ぎる。でも実際、きみの名刺はすぐに平らげてしまった。きみにあげた名刺入れ、めぐりめぐってまさかこんなことになるなんてね。

大切な人を本当に食べてしまうくらいならこのまま誰にも会わずに過ごそうと思う。どうせぼくはもうすぐこのまま朽ちていく。そして、ぼくはもう彼女の名前の魅力的な味に取り憑かれてしまった。だから、  。困ったことに、この手記にきみの名前を書いても、次の瞬間、ぼくはきみの名前を食べてしまうんだ。でも、それだけはどうか許してもらえないだろうか。ぼくが消えてしまうそのときまで、きみの名前を食べ続けることだけは。

わたしは溜息とともに手記を閉じる。彼と過ごした5年間、わたしはいかがわしい文字を隠し続けた。彼が文字食の暗い魅力に取り憑かれないように、普通の食事を取らせて紙を食べられないようにした。でもそんなの無駄だったのだ。わたしと過ごしていた以上、いずれ彼はわたしの名前にたどり着いていただろう。

わたしは彼を許そうと思う。彼がお腹いっぱいになるのなら、わたしはわたしの名前を彼にあげよう。だからわたしは、ここに自分の名前を記さない。

わたしはこうして名前を失った。




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「え、なにこれ?」

わたしの小説を読んだ彼は明らかに戸惑っている。

「なにって、わたしが書いた小説よ」

「いや、それはそうなんだけれど…ちょっと考えさせて」

彼の戸惑いも尤もかもしれない。わたしはちょっと浮かれていたのだ。

「小説の中の"ぼく"がぼくで、"わたし"がきみだということは分かる。だとすると、この"名前を食べる/失う"ってのは…」

「わたしがこういう作家だってこと、百も承知の上で結婚を申し込んでくれたんでしょう?」

「ああ、そうか!きみがぼくの籍に入るってことのメタファーなんだね」

3ヶ月前、わたしは5年間付き合った彼にプロポーズされた。わたしは結婚願望ありまくりだったから喜んでそれを受けた。結婚すれば彼の籍に入ることになるので、わたしの苗字は彼のものに置き換わる。あまりにも幸せだったからだろうか、そんな他愛もないことを小説にしてしまった。だからこれはただの私小説なのだ。わたしは怪奇/幻想小説家なので私小説すら陰鬱になってしまった。わたしは変な女だけれど、彼はそんなわたしのことが好きだって言ってくれるから、わたしはわたしのことが世界一幸せだと思っている。ただそれだけを彼に伝えたくて彼のためだけに小説を書いた。彼に幸せにしてもらうと、わたしは創作意欲が高まるのかもしれない。この小説もあっさりと書き上げてしまった。だから2人の未来のために、わたしをもっともっと幸せにしてね、ダーリン。

彼に微笑みかけるわたし。彼は「きみには言ったことがなかったけれど、確かに人って字だけを夢中になって食べた時期があるんだ。あれはひどく病みつきになる味でね…。それにしても、きみの名前を試そうって思ったことはなかったなぁ」と呟いて、わたしの小説の中の彼のように、雑誌からページを破り、まるで海苔みたいにばりばりと食べながら笑顔でわたしを見つめる。

その視線はさっきまでとは打って変わって、まるで肉食獣みたいに粘ついていた。

EllenEllen2012/01/28 15:47Thank you so much for this atrilce, it saved me time!

lbpqtnfmnblbpqtnfmnb2012/01/30 19:10jfeJso , [url=http://wnmvmttxbsjc.com/]wnmvmttxbsjc[/url], [link=http://jyqiwznyjbyh.com/]jyqiwznyjbyh[/link], http://pthotytfbvqt.com/

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