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2007-11-14

文体に宿るキャラクター性

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ファ文旧ブログからの転載エントリ。旧URLにおけるブクマはこちら


そもそもぼくが物語を紡いだとき、そこにはキャラクターが存在しているのだろうか。

characterという単語には色々な意味がある。例えば個性。例えば性格。例えば登場人物。普通、「キャラクター」と言えばこんな意味で使われることが多い。キャラクターとは何か。それは、オリジナルや二次創作などの物語を横断してもキャラクターとしての同一性を保てるだけの強度を備えているものだ。(つまり、『テヅカ・イズ・デッド』でのキャラという区分に当たる)

一方でcharacterという単語には文字という意味もあって、冒頭に書いた「そもそもぼくが物語を紡いだとき、そこにはキャラクターが存在しているのだろうか」という一文はこちらに重点を置いている。

charaterが文字という意味である以上、文字は文字通りの意味でキャラクターというわけだ。そして文字としてのキャラクターはその独立性のおかげで誰にとっても同じ意味を持つ。アルファベットの26文字において、Aは基本的にAという意味で通用する。特殊な状況下ではAがBになることもあるかもしれないが、普通AはAという意味で共通のものとして認識される。これを日本語の平仮名や片仮名、漢字に当てはめることもできるだろう。水は"みず"とか"スイ"とは読まれても火と同じようには読まれないし、火の意味は与えられていない。そういう排他性/他の文字との差異が文字を他者から独立させ、"キャラクター"にしている理由だろう。

その独立性があるからこそ、文字には横断性があり、誰が使っても同じ意味を持つ。ぼくはいま、左手の小指でキーボードのAを叩く。それはどこかの誰かがキーボードのAを叩いたのと同じように、ディスプレイにAというキャラクターを出力する。文字は誰にとっても等価だ。

しかし、その文字を使って編み上げられた文体は人それぞれで違ってくる。みんな同じようなデバイス、例えばペンを使ったりキーボードを使ってローマ字入力やかな入力をしているんだろうけれど、そこから出力された文字列は図らずも異なるリズムを抱えてしまう。その"異なるリズム"が確固たる個性になったとき、他者との差異が生じて、文体にもキャラクター性が宿るはずだ。

つまり、文字にはあらかじめキャラクター性が宿っているけれど、文字によって成り立っている文体ではキャラクター性は事後的に発生する。それは、文体のキャラクター性が書き手に依存するからだ。当たり前の話だけど。

文章を書きたいと思ったことのある人は、誰かの文体を模倣した経験のある人が多いのではないかと思う。その文体を自分で使って何かを書いてみたいという初期衝動。ぼくも作家の文体を真似して遊んでみたりすることがある。例えば谷川流や奈須きのこ、村上春樹など。文章の運びが特徴的な人ほど真似しやすいというのは、経験のある人ならよく分かるのではないかと思う。また、ぼくの文体には舞城王太郎の影響がある。彼の文体を真似るときに重要なのは文中に英単語を散りばめることでもノワール調にすることでもなく、英語的なニュアンスで日本語を捉えるという点にこそある。というのは蛇足なわけだけれども、とにかく。

上記のように、文体が二次創作的な欲望で消費されることもあるはずなのだ、キャラクターを消費するときと同種の想像力のもとで。

だから、ある作家の文体が他者の手で別の物語を語るために使われるとき、その文体は物語横断的な強度を獲得しているとは言えないだろうか。他者に用いられても同一性を失わない文体、それこそが文体のキャラクター性なのではないかと思う。

そういう文体に宿るだろうキャラクター性は、空中のそこらへんを漂っているのを偶然発見して…というやり方ではなくて、反復的なトライアルアンドエラーをして自らの身体性に刻み込むことでしか獲得できないのだろうと思う。というのも最近、ぼくはキーボードを何となく楽器に近いものとして感じているからだ。

もちろんここで言っているキーボードは楽器としてのキーボードではなくて、コンピュータへの文字入力デバイスであるキーボードのことだ。キーを叩いて文字を打ち込み、リズム(文体)とメロディ(修辞)を持った文章を生成してアウトプットする。何を言ってるのか理解されなかったら少し悲しいけれど、もしかしたら楽器の演奏経験がある人にはこの感覚を共有してもらえるかもしれない。

そしてギターやピアノやドラムその他いろいろな楽器を上達するには、とにかくその楽器と一緒に過ごして仲良くなるしかないのだ。そうすることで、楽器が自らの身体の延長線上にあるような感覚を得ることが出来る。そこではじめて楽器が自分のものになるのだ。ならば文体を自分の血肉とするためにはキーを叩きまくるしかない。そういうわけなので、物語を語る傍らで、ぼくはぼくの文体を見つけるために文体を演奏していきます。

KK2013/05/22 00:16文体論とても面白く読ませていただきました

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