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2007-12-02

ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日

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ファック文芸部杯に参加しなかった文芸部員が迎える12月2日は、ひとりで過ごすクリスマスよりも寂しいものである。

2007年12月2日のピンボール

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「ぼくはやっぱり批評を裏切れなかった。彼女とよりを戻すことにしたんだ。だから創作、きみとだけ過ごすことはもうできないんだ。前みたいな友達に戻ろう」

「うそ!だってあなた、批評ちゃんとは別れるって言ってたじゃない!」

「うん…。でもぼくはもう自分自身を騙して君とだけ過ごすなんてことはできない。きみも大切なんだけど、やっぱり批評も大切なんだ」

「そんな…」

「正直に話すよ。ファック文芸部で更新していなかった間、ぼくはダイアリーで批評と過ごしていたんだ」

空気が変わった。それまではちょっと懇願するような感じだったのに、彼女を包むアトモスフィアが怒り出したのがよく分かった。爆発するんだろうな、ぼくはそう思って身構えた。

「ばかっ!自分勝手っ!死んじゃえっ!」

案の定、怒声を発してぼくの彼女、いや、彼女だった”創作”は部屋を出て行った。ぼくは部屋に一人きりになる。

批評はぼくの以前の彼女だ。別れ方は最悪だった。ぼくが一方的に別れ話を切り出して、彼女の言うことは何も聞かずに、ぼくはぼくらの関係を解消させてしまった。そしてそのあと、創作と付き合うことにした。あのときのぼくは、はっきりと言ってしまえば批評に対して不能になっていた。あのときのぼくは、どうしてか彼女と上手く折り合いをつけるということに思い至らなかった。あのときのぼくは、どうしてか彼女と別れなければならないような気持ちに追い立てられていた。そして今すぐ批評と別れて創作と付き合わないと、ぼくはぼく自身に妥協しなければならないような気分になっていたのだ。


くだらない。


自分で自分に意味の分からないルールを設定するなんて本当に馬鹿げている。だってそのルールには理由なんて無かったんだから。けっきょくぼくは批評なしで生きていくことを寂しいと思ってしまったのだ。その結果、今度は創作を傷付けてしまった。最悪だ。ぼくはピンボールマシンの中で落ち着きなく右往左往するボールみたいなものなのかもしれない。ティルトしっぱなしでゲームオーバー。

「でも、あなたが今書いているのだってけっきょくは創作じゃない。わたしも創作ちゃんも結局はあなたの空想の産物でしょう」

批評に電話をかけたら、彼女はそう言ってぼくを慰めてくれた。そうだ、ぼくは今、こうやって創作と批評を擬人化して、創作を仕上げている。そして批評は作品外からの批評的な視点でそれを指摘してくれた。つまり、ここでは批評と創作が共存していることになる。これならぼくは、批評と創作ふたりと一緒に過ごすこともできるのかもしれない。彼女たちを2つのフリッパーに見立てて、まだまだこのピンボールごっこを続けるのも楽しそうだ。とかいって、さっきまで憂鬱になっていたのに一瞬で楽しい想像に溺れてしまうぼくなのだった。現金だね。

「分かってるでしょうけど、創作ちゃんにひどいことを言ったんだから、ちゃんと謝るのよ?」

それを見透かされたように、冷たい声で批評に釘を刺されてしまった。うぐぐ。それは結構ハードルが高い。一度拗ねた創作を宥めるのは本当に骨が折れるのだ(これは比喩ではなく、ぼくは拗ねた彼女に名前も聞いたことがないような関節技を極められて骨を折られたことがある)。どうやったら上手に機嫌を直してもらえるか、ぼくはこれからストーリィを練りに練らなければ。あいつ、ロジックの通ったものが好きだからミステリなんかを書いてプレゼントしたら喜ばれるかもな。

こうしてぼくと批評と創作の新しい共同生活が始まりを告げた。


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うん、いい感じに狂ってるかも。何をしたかったのかって、批評ってやっぱりいいよなあと思って今再び批評に接しているということを書きたかった、ただそれだけです。これからはファ文をメインに更新していくぜって威勢よく吠えてたけれど、ダイアリーでの批評と併せて、どっちも同じ意味合いでスーパーフラットにやっていきます。こっちで更新していない間もあっちでの更新はしていて、今日も批評エントリをひとつ立ててきたところです。こういう感じに、批評と創作がクロスオーヴァーしていくようなことを2つのブログの間でやっていきます。

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2007-11-14

文体に宿るキャラクター性

| 22:38 | 文体に宿るキャラクター性 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - 文体に宿るキャラクター性 - 森のキツネは嘘を吐く 文体に宿るキャラクター性 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ファ文旧ブログからの転載エントリ。旧URLにおけるブクマはこちら


そもそもぼくが物語を紡いだとき、そこにはキャラクターが存在しているのだろうか。

characterという単語には色々な意味がある。例えば個性。例えば性格。例えば登場人物。普通、「キャラクター」と言えばこんな意味で使われることが多い。キャラクターとは何か。それは、オリジナルや二次創作などの物語を横断してもキャラクターとしての同一性を保てるだけの強度を備えているものだ。(つまり、『テヅカ・イズ・デッド』でのキャラという区分に当たる)

一方でcharacterという単語には文字という意味もあって、冒頭に書いた「そもそもぼくが物語を紡いだとき、そこにはキャラクターが存在しているのだろうか」という一文はこちらに重点を置いている。

charaterが文字という意味である以上、文字は文字通りの意味でキャラクターというわけだ。そして文字としてのキャラクターはその独立性のおかげで誰にとっても同じ意味を持つ。アルファベットの26文字において、Aは基本的にAという意味で通用する。特殊な状況下ではAがBになることもあるかもしれないが、普通AはAという意味で共通のものとして認識される。これを日本語の平仮名や片仮名、漢字に当てはめることもできるだろう。水は"みず"とか"スイ"とは読まれても火と同じようには読まれないし、火の意味は与えられていない。そういう排他性/他の文字との差異が文字を他者から独立させ、"キャラクター"にしている理由だろう。

その独立性があるからこそ、文字には横断性があり、誰が使っても同じ意味を持つ。ぼくはいま、左手の小指でキーボードのAを叩く。それはどこかの誰かがキーボードのAを叩いたのと同じように、ディスプレイにAというキャラクターを出力する。文字は誰にとっても等価だ。

しかし、その文字を使って編み上げられた文体は人それぞれで違ってくる。みんな同じようなデバイス、例えばペンを使ったりキーボードを使ってローマ字入力やかな入力をしているんだろうけれど、そこから出力された文字列は図らずも異なるリズムを抱えてしまう。その"異なるリズム"が確固たる個性になったとき、他者との差異が生じて、文体にもキャラクター性が宿るはずだ。

つまり、文字にはあらかじめキャラクター性が宿っているけれど、文字によって成り立っている文体ではキャラクター性は事後的に発生する。それは、文体のキャラクター性が書き手に依存するからだ。当たり前の話だけど。

文章を書きたいと思ったことのある人は、誰かの文体を模倣した経験のある人が多いのではないかと思う。その文体を自分で使って何かを書いてみたいという初期衝動。ぼくも作家の文体を真似して遊んでみたりすることがある。例えば谷川流や奈須きのこ、村上春樹など。文章の運びが特徴的な人ほど真似しやすいというのは、経験のある人ならよく分かるのではないかと思う。また、ぼくの文体には舞城王太郎の影響がある。彼の文体を真似るときに重要なのは文中に英単語を散りばめることでもノワール調にすることでもなく、英語的なニュアンスで日本語を捉えるという点にこそある。というのは蛇足なわけだけれども、とにかく。

上記のように、文体が二次創作的な欲望で消費されることもあるはずなのだ、キャラクターを消費するときと同種の想像力のもとで。

だから、ある作家の文体が他者の手で別の物語を語るために使われるとき、その文体は物語横断的な強度を獲得しているとは言えないだろうか。他者に用いられても同一性を失わない文体、それこそが文体のキャラクター性なのではないかと思う。

そういう文体に宿るだろうキャラクター性は、空中のそこらへんを漂っているのを偶然発見して…というやり方ではなくて、反復的なトライアルアンドエラーをして自らの身体性に刻み込むことでしか獲得できないのだろうと思う。というのも最近、ぼくはキーボードを何となく楽器に近いものとして感じているからだ。

もちろんここで言っているキーボードは楽器としてのキーボードではなくて、コンピュータへの文字入力デバイスであるキーボードのことだ。キーを叩いて文字を打ち込み、リズム(文体)とメロディ(修辞)を持った文章を生成してアウトプットする。何を言ってるのか理解されなかったら少し悲しいけれど、もしかしたら楽器の演奏経験がある人にはこの感覚を共有してもらえるかもしれない。

そしてギターやピアノやドラムその他いろいろな楽器を上達するには、とにかくその楽器と一緒に過ごして仲良くなるしかないのだ。そうすることで、楽器が自らの身体の延長線上にあるような感覚を得ることが出来る。そこではじめて楽器が自分のものになるのだ。ならば文体を自分の血肉とするためにはキーを叩きまくるしかない。そういうわけなので、物語を語る傍らで、ぼくはぼくの文体を見つけるために文体を演奏していきます。

KK2013/05/22 00:16文体論とても面白く読ませていただきました

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2007-11-09

ハロー、ファック文芸部

| 22:33 | ハロー、ファック文芸部 - 森のキツネは嘘を吐く を含むブックマーク はてなブックマーク - ハロー、ファック文芸部 - 森のキツネは嘘を吐く ハロー、ファック文芸部 - 森のキツネは嘘を吐く のブックマークコメント

ファ文旧ブログからの転載となる自己紹介エントリ。舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』の批評も兼ねる。旧URLにおけるブクマはこちら。なお、転載にあたって若干の加筆修正を施している。

『ディスコ探偵水曜日』を読んだとき、批評とは名探偵ごっこにすぎないのだろうか、そう思った。

『ディスコ探偵水曜日』は『新潮』に連載されていた舞城王太郎の小説で、物語は迷子探し専門の探偵ディスコ・ウェンズデイの一人称で語られる。彼は和菓子職人の水星Cとともに迷子になった梢の魂を探して、福井県西暁にあるミステリ作家暗病院終了(あんびょういんおわる)邸パインハウスへ向かう。そのパインハウスでは暗病院が奇妙な死を遂げており、名探偵たちがその謎を解決するために集結していた。彼らは一人ずつ順番に自前の推理を披露する。そして彼らの推理はことごとく外れ、推理を間違えた名探偵は目に箸を刺して死ぬ。暗病院の死にまつわる真相は何度も上書き保存され、名探偵の死体は推理とともに重層的に積み上がる。そしてディスコは思考のダンスフロアでツイストもできずに戸惑う。

この作品の連載自体は終了しているけれど今のところ未完で、単行本化の際に最終章を加筆されて完結することになっている。

『ディスコ探偵水曜日』の何が批評的なのか、それはこの作品における名探偵と批評の類似性だ。名探偵は論理で事件を解決する。一方、批評とは作品外の論理を持ち込んでそこに回路を生み出す作業だ。どちらも勝手な文脈を読んで真相を掴んだ気分になっているという点では同じだと言えるだろう。

現実にはすべてを論理で読み解けるなんてことはあるわけがない。自分の行動を逐一すべてロジカルに説明できる人間が果たして存在するだろうか。いないはずだ。自分では説明のつかない気まぐれみたいなアクションだってあるだろう。当たり前だけど、割り算をすれば余りが生まれることもある。しかし、批評を好む人間はそういったものをノイズ=雑音などと呼んだりする。そして彼はそのノイズを排除し、世界と物語にクリアな整合性を求めるだろう。

ウェブは批評的な文字列を世界に向けて発信することを容易にした。そこでは多くの人々によって多くの批評的な視線が生み出され、消費され、生き残り、死んでいく。

『ディスコ探偵水曜日』はそうした状況を滑稽に描こうとしているのではないだろうか。名探偵たちがたったひとつの事象に対して突拍子もない文脈を引っ張ってきていくつもの推理を展開させるこの作品を読んでいて、そんなふうに感じた。そしてこういった批評的な視線すら既に見透かされていて、あらかじめディスコと水星Cの漫才みたいなやり取りによって回収されてしまっているようにも思える。

個人的なことを記すと、『デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド』では、虚構に対して批評的な視線を当てている。つまり、物事をクリアに見渡すことに腐心している。最近「ゼロ年代は俺の嫁」とか言いながら『ゼロ年代の想像力』を追いかけているからか、周囲にも似たような興味を持った人が多い。ウェブ上をその手の視線が飛び交っている様子を見るのがちょっと楽しいし、他の人から見たらぼくもその一部に組み込まれているのだろう。

だからその意味では、ぼくも『ディスコ探偵水曜日』に登場する名探偵たちと変わらない。そして、ノイズを徹底的に排除してそこにはない文脈を読みまくる名探偵たちがどんどん目を失って死んでいく光景は、過度の批評的な視線は視野狭窄になりかねないし、行き過ぎれば盲目的であるということのメタファーに思える。だとすれば、ぼくの批評もいずれ目に箸を刺して死ぬ運命にあるのかもしれない。

そんなふうに、批評だけではぼくの思考はノイズの一斉排除に向かってしまうおそれがある。だからここファック文芸部では、それとは逆のことをやっていきたい。批評が消費する側の視点だとすれば、それだけでなく、創り出す側の視点を用いる。そして両者を関連付けて、2つのブログで二重螺旋のようにフィードバックさせていけたらいいなと思う。

そんなわけで、最後にひとこと挨拶を。

はじめまして、よろしくね。

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2007-11-07

id:foxintheforestの誕生

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はじめまして、id:foxintheforestです。

嘘です。実ははじめましてではなく、id:foxintheforestid:nuff-kieのサブアカウントです。既にメインアカウントでファック文芸部に参加しているのですが、この度サブアカウントとリプレースすることにしました。あっちのエントリを読んでくださった方にブクマしてくれた皆さん、どうもありがとう。既存のエントリはこちらに移行し、それが完了次第メインアカウントではファック文芸部から退会します。

個人的な話になりますが、来る第6回文学フリマid:hey11popさんの同人誌に参加しています。詳細はこちらを参照して頂くとして、id:nuff-kieは森野キツネ名義で執筆しました。このふざけた名前ですが、"森野"はフットボールフリークであるところの俺が敬愛するジョゼ・モウリーニョから引用し、"キツネ"は文フリ原稿の執筆中、『Kitsune Maison Compilation』や『Kitsune Udon』、それにDigitalismなどKitsune関連のディスクを聴き続けていたことに由来します。

ほぼ「思いつきで言ってみた」に等しい命名にも関わらず妙に気に入ってしまったため、これをサブアカウント化しようという思惑が浮上し、さらにこのアカウントでファック文芸部に参加するんだと息巻いてみたところ、id:foxintheforestが誕生する運びとなりました。

直近の方針としては、旧作をこちらに転載しつつ文フリまでに新作を1つ公開する予定です。というわけで今後ともよろしくお願いします。

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