2007-11-24
自作に対する一顧 『彼女には名前が無い』
blog文豪日記 | |
上記エントリで拙著『彼女には名前が無い』についてちょっとばかり言及されていて、そこで何かを訊かれたわけではないのだけれどこちらが考えていることをまとめてみた。
文字を食べるということにどんな意味を込めたのかといえば、それはやはり読書体験に他ならない。いや、ブログのようなテキストもそこには含まれてくるわけだから、読書というよりは文字を読むという体験と言ったほうが実態に即しているのだろう。この"体験"について、食事を例にとって説明してみる。
食事が身体に及ぼす影響というのは、それはもうダイレクトなものだ。偏った食生活の果てに何らかの病気になるといったケースもあるだろうし、腐ったものを食べれば腹を壊すし、青酸カリを取り込めば死ぬ。そこにはすごく分かり易い影響関係がある。
こういう食事と身体の関係性みたいなものがテキストと思考の間にも少なからずあるわけで、それは例えば他者の書いたテキストを読んで文章自体の美しさやらカッコよさやらに感じ入ったり、そこに込められた感情や思想に共鳴してしまったりとか、そういった類のものだ。もちろんそれはテキストだけじゃなくて、人によっては映像や音楽の場合もあるだろう。
そうやって他者から受けた影響というのは、思考の中で自らの血肉になっていく。そしてそれを吐き出すことで、次にそれを血肉とする者が現れる。そうやって想像力というものは脈々と受け継がれていくものではないかと思う。そういったものを食事に喩えたのだ、あのエントリでは。
『彼女には名前が無い』に直接的な影響を与えた想像力がいくつあるのか*1書いた俺自身にも把握できていないけれど、その中のひとつについてはここに書いたとおりだということは疑いようもないわけである。
そのようにして俺の創作は形作られていく。今までも、そしてこれからも。
*1:あとはミステリのことも考えていた