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小説蛾螺倶璃砦

2006-03-01

[] 天草四郎に任せておけ  天草四郎に任せておけ - 小説蛾螺倶璃砦 を含むブックマーク

生物、憑依物で使われる方法。 話中でなにか問題があった場合、天草四郎時貞を投入する事で解決を図る。 この場合、天草四郎超常現象を自在に操る。

このメソッドを発案、流布したのは御存知山田風太郎先生の「魔界転生」で、この小説において、歴史講談の名キャラクターを一同に集わせる為に、天草四郎がいきなり生き返ったり、人を生き返したりしたのが世の中に「天草四郎はすごい」を印象付けた。

この影響を受けたものには、漫画の「鋼」、「剣聖ツバメ」など。

2006-02-20

[] ターン解説ターン  ターン解説ターン - 小説蛾螺倶璃砦 を含むブックマーク

賢明なる読者諸君はすでにご承知であろうが

上記は賢明なる読者諸君はすでにご承知であろうが、白土三平の名解説台詞である。

説明しよう!

説明しよう! これはアニメタイムボカン」で解説が入る時に言われる名台詞である。

これら解説用語は、主に読者または視聴者が「?」と思う所でインサートされるという点で共通している。 小説でも、「過去に起こった出来事」や「技の解説」というものはこの形に属する。

だが、我々はここ数年「解説になって無い解説」というものに囚われている。 もちろん、「シグルイ」である。

これは「シグルイ」の解説の問題点を洗い出す事によって新たなメソッドの開発をする真実のドキュメントである。

シグルイ」の解説の問題とは?

シグルイ」の解説に問題があることに関しては論を待たないが、「何故おかしいのか」となると我々は曖昧精神状態に追いやられることが多い。 今回、筆者も「シグルイ」既刊をなめるように読んだ後、「獣のごとくうつぶせ」体験を半刻ほど経てヴァルハラにいたった。 夢だった。

だが、その経験も無駄ではなかった。 あッフールあくばる!!

筆が滑った。 解説の問題である。

筆者が達した雑然とした直感では、「シグルイ」の解説の問題は「解説して欲しく無いような内容を、積極的に解説する」である。

例としてあげるならば、五巻の「この日は四足獣の肝であった」が適切だろう。 この場合、それ以前の絵の流れから言って、まず解説されるべきは「虎眼先生、なにしてるの?」であり「食べさせている物はなに?」ではない。

だが、ここでまず語られたのは「四足獣の肝」であった。 ここは重要である。 ここでは間接的に「なにしているの?」には答えているが、もっと、こう、言い方というものがッッッッ!

これから分かるように、「解説の人」は非常に恣意的に語る事を選んでいて、解説になっていない。

この問題点を、解説になっていないのが解説、それが「ターン解説ターン」とここでは名づけることにします。

これを小説に使う場合、どうなるだろうか。

「ターン解説ターン」使用例

「愛してる」

「私も…」

<麻呂麿のボディは親の七光りにより>

「愛してる」

「私も…」

<無美はそれがわかっていない。>

わけがわかりませんね。 このメソッドは基本的に端からいらない事を言うので、お話を引っ掻き回す方法としては優れていますが、やりすぎると話が無茶になるので注意が必要です。

ただ、バカ小説ならばむしろ積極的に引っ掻き回す事が出来るので、使ってみるのもいいかもしれません。

補記「解説の人」

賢明な(以下略)、「シグルイ」の解説はしばしば「解説の人」、「ナレーターの人」といわれるが、これはその解説の真意が読者からは全くうかがい知れない、すなわり極めて個人的な感覚に根付いた発言であるからである。

ナレーター氏が何を考えて生きているのか、我々にはわからない。 ただ、彼の人だけが「シグルイ世界の内部を語る事を許されている。 我々はただ、その言葉を聴くしかない。

ナレーター氏の言葉自体は冷静であったが、今の発言の主が自分である事を、明確に理解しているのだろうか?

2006-01-20

[] 「隆慶一郎」より「どうだ俺の主人公メソッドは見つけた奴が偉いんだよ  「隆慶一郎」より「どうだ俺の主人公」[]メソッドは見つけた奴が偉いんだよ[] - 小説蛾螺倶璃砦 を含むブックマーク

小説には主人公がつきものである。 大概の作者において、主人公は素晴らしくあらねばならないという気概を持って書かれる。*1 そういった気概の行き着く先の一つに、「隆慶一郎」。 その名が燦然と輝いている。

隆慶一郎主人公が他の作家主人公を凌駕する点は、究極すると一点に絞られる。 それは「どんなすごいやつがでても、主人公は常に最高である」という点だ。 「最高」というのは、武力的にであったり、魅力的にであったりさまざまだ。

しかし、「オールマイティ」というわけではない。 その為、部分能力が主人公より高い人物も当然でてくる。 下手したらこいつが主人公を食ってしまうんじゃないかという勢いやつらが、ぽんと出てくる。 この状況、他の作家なら「こいつらぶっ倒しておお主人公つえー」とする。

だが、隆慶一郎はそうしない。 なぜなら隆慶一郎主人公は「常に最高」である。 その「常に最高」である主人公が「常に最高」である為には、主人公存在感が違う人物に喰らわれかねない、ぎりぎりの状況が望ましい。 よって隆慶一郎はそのキャラの立った人物を出来るだけ長く話の中に存在させようとする。 すなわち戦って仲間にするか、長く敵役にすえる。*2

この方法には主人公を立たせる以外に副次的な効果があって、それは「主人公存在によってサブキャラがより際立つ」というものである。 そしてそれによって主人公が更に際立つのは言うまでも無い。

ちなみに。

隆慶一郎においてこの方法が一番トリッキーかつ効果的に使われているのは、断筆となった「花と火の帝」である。 これは表向きの主人公である岩介がいろんな人や敵をどんどん仲間にしていく、という従来型の様相を見せながら、その岩介が後水尾天皇に著しく心酔する事によって後水尾天皇存在が一気に大きくなるようになっている。 そしてそれがまた、岩介を魅力的にしていくのである。

*1浅井ラボなど、いつの世にも例外は当然存在するが。

*2短編の場合はちょっと違うけど。