2008-12-14
■ [other] 暗渠

かちん。
小気味良い金属の音。オイルの匂いと共に僅かに灯る炎。
肺一杯に煙草を吸い込む。なんて美味いんだろう。
時間が進んで、色々なものが変わった。変わらないものもあった。
だからこれは特別な時にしか吸わないんだ。と笑った。
「これでこの仕事も終わりだ」
肉の壁に寄りかかり体を休めていた。
高圧力にも耐えるように改造された彼女の腹の中。
名前はダイビング・ベルだったか。俺たちのスイートホーム。
仕事の内容はニューヨークの下水道修理だった。
戸惑ったさ。そりゃ。たかが下水道の水漏れを直すのに俺が呼ばれたんだから。
しかし、俺だけじゃなかった。総勢200人程が集められていたし、半分は忌々しい機械野郎だった。
プロジェクトの年数は無期限、要は修理が完了するまでって事だ。
詰まらない仕事だと思った。いやそこに集まった大部分がそう思っていた。
恒常性の下水道はひび割れ等を修復や苔や雑菌の除去、害虫駆除などをナノロボットを使って行っている。
単純な機能に絞ったものだけが使われている為に暴走などの心配もなかった。
要はそれらが古くなったか、故障したか、そんな事だと誰しもが思ったのだ。
新しいものを注入すれば済むんじゃないかとも思ったがそう単純でもないらしい。
水漏れの量がただ事ではなかった。都市を賄っている水の半分が漏れているらしい。毎日。
修復機能を超えた破損か。その場所を特定し修理する。
下水道は外部からは閉じて隠蔽されている為に地図がないとの事。誰だよ設計したのは。蓋すりゃいいってものじゃないだろう。
捜索範囲が広いって事が一番の問題か。しかも下水道みたいな狭い所で。
早くも機会野郎は形を変え、下水道で活動しやすい形態になっている気持ちが悪い奴らめ。
幸い、給料は良かった。この仕事が終われば当分は仕事せずに済みそうだった。
機械野郎と一緒にされるのは気に食わなかったが、奴らに遅れを取るのはもっと気に食わない。犬も食わない。
10人ずつ5チームに分かれて、それぞれのポイントから潜った。
綺麗な下水道だった。もっと黴臭くて、ぬめぬめしていて。ネズミが走り回っていて、腐った浮浪者の死体があって、鰐が住んでいるというイメージが払拭された。
リノリウムを思わせる床。所々で1mm程の光が点滅している。ナノマシン・ホタル。まさかこんな幻想的な光景だとは…驚いた。
10階層程降りた辺りだっただろうか…それまでの下水道は綺麗でこそあれ構造は下水道だった。
しかし…なんと言えばいいのだろうか…まるでだまし絵…そうだまし絵だった。
ありえない構造、長く気圧の高い地下に居る為に認識感覚が狂ったのかと思ったがコンディションは全てグリーン。
認識が追いついていないだけか。不規則かつ奇妙な三次元曲線を描き、どこまでも上り続ける水路。
こんな風になっていたらそりゃ水も漏れるわな。どこに流れていくか水は知っているのだろうか。
とにかく、今まで以上に気をつけながら、修復箇所を探した。更に深く潜っていった。1000フィート。
これ以上は他チームとの連絡手段だった電子機器が使えなくなった。まぁ仕方が無いだろう。所詮機械だ。
どうやら、下水施設そのものが拡張しているようだった。プログラムミスか、はたまた何かに介入されたかはわからないが。何かあったんだろう。
それともこれも設計の内か。人間の手を使わずに自動化しようとするから余計な手間が発生するんだ。
各層の捜索にも時間が掛かるようになってきていた。普通は慣れてくると早くなるものなんだがな…最近では数週間掛かる事もあった。
歪に捻じ曲がった空間や頭の痛くなるような構造にも慣れてきてはいた。ここまで来るのに半数ほどが戻ってこなかったが…
まぁ上に戻ったのかもしれないし、ただ迷ったのかもしれない。
ここの真上はロンドンだぜ。誰かが言ったがあながち冗談ではないかもしれなかった。
正直体もきつくなってきていた。いくら耐圧に遺伝子改造したとはいえ…深すぎる。暑い。熱い。
生臭い層にたどり着いた。おかしい。魚の匂い…?のような。ナノマシンが機能していないのか。そういえばホタルが点灯していない。
「どうやらビンゴだな…この層だ」
リーダーが言った。5人が無言で頷いた。
ここまで来るのに、どれだけの時間を要した事か…ドブに捨てるような金と時間の使い方。計画を立てた奴らの頭を疑いもしたが、ある意味報われた訳だ。
それぞれ分散して捜索に当たった。やはりこの層に違いない。確信が香る。
明らかに異常だ。まるで魚の腸の中で消化されているかのように生臭さが取り巻いている。
あれはなんだ…?ネズミか…?
ちょろちょろと不恰好に走り去る。
こんな深い所に生き物がいるのか…
こちらを見たネズミは人間の顔のように見えた気がした。
まさか…な
しかし駆除も仕事だ。赤外線を照射する銃を構える。どんな獲物もよく見える。自慢の眼だ。
音の無い光の筋が獲物に当たり蒸発する。黒い嫌な煙が出る。
一週間経った。最初にあのネズミを見たきり何も無かった…
そろそろ集合する時間だった。仕方なく帰還地点へ向かう。そろそろ休まねばならない。
仕事に集中しているときに来る疲れが一番嫌いだ。
これだけは機械野郎が羨ましくなる。あんな醜くなりたくはないが。
ホームには誰も戻ってこなかった。
最初から注意を払うものを間違えていたのだ俺たちは。
いやそもそも関わってはいけなかったのだ。
水漏れのコストは放って置いたほうが良かったのだ。我々の為には。
完全に密封された彼女の体内が腐臭にも似た魚の匂いを放ち始めた。
粘膜を広げて外に出る。
こうやって生まれ変われたらな。
ありえない構造に騙されて見逃していた。
そもそも、おかしいのは水の流れの方だったのだ。
いや水のようなものと言うべきか。
下水道は完璧だと誰もが思っていたし、仕事も簡単だと思っていた。
例え悪夢のような造りをしていて、迷い、戻ってこれなくなったとしても、修復箇所さえ見つければ終わる。
この層についた全員が同時に見せた達成感と僅かな喜び、この暗い場所で太陽にも似た彼らの最後の表情は忘れない。
ぬるぬると黒い水のようなもの。漂う腐臭。ネズミ。やっぱり下水はこうだよな。
我らがスイートホームはどす黒く変色していった。下水道を流れている水のようなものが染み込んでいるのだ。
そして彼女は苦しんでいる、もう助からないだろう。そして俺も。壁には意味のわからない言葉が書かれている。
言語学者も連れてくるべきだったかな。冗談を言う相手はもう居ない。
おんぐ だくた りんか、ねぶろっど づぃん、ねぶろっど づぃん、おんぐ だくた りんか、 よぐ=そとーす、よぐ=そとーす、おんぐ だくた りんか、おんぐ だくた りんか、やーる むてん、やーる むてん
フィルターまで吸いきった一本。煙草はもう、ない。美味かった。美味かったさ。これを吸う為に生きてきた。
潮の香りがする。走馬灯のように水のようなものが流れてくる。これが俺の脳が魅せ、感じさせる最後のシーン。海。暗く深い闇。
捻じ曲がった空間を、地上では見たことの無い魅惑的な構造の壁を、噴流となって、俺に、流れ込む。
そのおぞましい流れの上に赤い金魚のような女の子が乗っている。女の子?
「そーすけー!すきー!」
それが俺が最後に聞いた言葉だった…どういう意味だろうか。
