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掴めそうで掴めない情景、淡く、うっすらと。

記憶の中にぼんやり灯る物語。

2009-05-29

[] Processing Processing 10:06  Processing Processing - pour away を含むブックマーク はてなブックマーク -  Processing Processing - pour away

  1. Webページとは何か?どこで始まり、どこで終わるのか?そのような概念は有用なのか、それともWebページを相互リンクしたドキュメントの大きなデータべースのひとつとして見た方が良いのだろうか?
  2. ブラウザはWebに適しているのだろうか?それはHTMLページを見る分には十分だが、私はむしろ、GoogleExcelに内蔵されているような、Webやローカルファイルを検索し、必要に応じてブラウザポップアップするようなスマートなデータベーススプレッドシートが欲しい。Webのコンテンツの大きな部分はメタデータだ。検索ボックス、目次、ナビゲーション、最近更新されたもののリスト。サイトがアドレスバーファビコンを持つのと同じように、サイトの一番上のパンくずリストが役に立つ事はないだろうか?
  3. どうしてemがiより優れているのか?私が1901年からのコンテンツを公開し、それがイタリック体であるなら、それはイタリック体なのであり、強調(em)ではない。タイポグラフィというのは歴史によって微妙に変化し、情報を与えられ、深い意味を持つ。現在のWebの状況は、このことを多かれ少なかれ完全に無視し、タイポグラフィの基準とアイデアを木構造データベースへとねじ込む方法を延々と捜し求めている(例えば引用符qタグ)。
  4. なぜあるタグは他のものより特権が与えられているのだろう?なぜblockquote、em、strong、qといったタグは event、note、footnote、factのような存在しないタグよりも必要なのだろうか?それはHTMLタイポグラフィの構造を受け継ごうとしたからだ。そしてそれらはほとんどの人に受け容れ難く、微妙で複雑なものになった。そしてそれに拘り続けている、ああ、Webとはタイポグラフィ的、セマンティクス的に未成熟という事を意味するのだ。…狂っている。
  5. どうすればコンテンツの本当の再利用ができるか?私はDocBook形式のXMLは本にでもWebページにもできるというような事を言っているのではない。私が言っているのは、個々の文やフレーズを取り出して時系列に並べることで、短編から脚本を自動的に抽出するような。そういう類のものだ。
  6. 単に「このページにリンクする」なんて言わずに、「このページはあのページの内容を拡張している」とか、「このページはこの著者のXという名前のリソースである」のように言ってリンクに意味を与えるべきだとして、それで私たちにどうしろというのだろう?つまり、それによって何が得られるのだろう?

テキストの本質とは何なのか。タイポグラフィーとは、物語とは、それらはWebの中ではどうなるのか。

それを理解するのにシステムを構築するのは手っ取り早い方法だ。

これは、古くからあるレトリックの伝統、ソフィストアリストテレス派の葛藤を解決する方法だ。

画面に表示されるテキストはストレートな散文だ、スムーズに読めるようにデザインされ、磨き上げられ文彩の光沢を得る。

しかし、コンテンツを管理するために使用されるリンク等が単一の論理的な状態でしかない。


男はいつかは死ぬ。

ソクラテスは男。

従ってソクラテスは死ぬ。

ポール・フォードはこのエッセイを書いている。

従ってポール・フォードはライター。

このページは、そのページに関連している。


あなたが読んでいる何かの文章は歴史が試行錯誤してきたものだ。

ソフィストからデリダまでの文章の歴史の影響を受けている。

しかし、あなたをナビゲーションするものは唯の論理的な状態だ。

テキストや画像を選択、クリックしてファイルを取得したり、画面に表示したりしている。

テキストはレトリックの伝統に基づき、リンクは論理的伝統に基づいている、そしてそれのどこかに見定める価値がある。


レトリック歴史家、ラーナムは欧米の教育学的理解の歴史はこれらの2つの伝統のゆらぎとして理解することができると指摘する、

一方は力強い言説(または批判)の為のコレクション。モラルと関係なく真実に根差さない、絡み合いもつれ合ったレトリックの伝統。

そしてもう一方は、プラトン哲学やブール論理などの知識、エキスパートシステムや粒子加速器等を使って、宇宙に対する真理を探し求めてきた。

これら一方の伝統が正しいのではなく、これら2つの伝統の葛藤は、欧米文化に組み込まれていて、しばしばsprezzatura(難しいことを簡単に見せること)として議論される。

そしてこのサイトは「物語とロジックの関係とは何か?」という問題を私が取り組む場所なのだ。

Webにとってのsprezzaturaとは何だろうか?


私より賢い多くの人々が、言語学や小説の記号論に取り組み、それぞれを完全に分解し、ソール・クリプキのように名前とは何かを定義している。

彼らは方程式を使って、真実を追求している。

私はこれらのマシンの中で動作する物語を探している。

私を楽しませてくれるものを探している。

私は真実という言葉に騙され易い。

これは私が愚かという事を意味する、その愚かな私から深いギャップのある、人工知能コミュニティ言語学専門家アルゴリズムエキスパート専門家、標準策定者、集合論専門家、原典批評家、その他の解析者達、そして統計家を見ているが、しかしそこにあるのは羨望の眼差しではなく、ある種の絶望なのだ。

私はそれらのどれをも完全には理解する事ができない。私は彼らのようにはなれないのだ。


それでも私にも良い点はある。今では世界は4500語も手にしている。

それには何かの価値があるはずだ。稚拙な言い回しにせよ、誰かには反例として役に立つかもしれない。

それが専門用語だらけにも関わらず、誰かを愉しませる事ができるかもしれない。

私にはコンテンツマネジメントシステムがあり、機能し始めていて、私の散文の限界を示し、私の今後の道筋を見せてくれている。

このようなやり方ができる以前は見えなかったもの、それは今も読者には見えないが、書き手が文章を作成しているときの特別な経験とそこから生まれるアイデアがある。


これは新しいメディアにとってはもっとも痛い部分だ。どれほど多くのものがメディアそれ自体の為に使われているだろうか。

ブログが良い例だ。ブログを書く人の多くはブログ自体についてやブログで書く事について書いている。

新しいメディアで何をするかを探して、初めてマイクを持った人のようにマイクに向かって言うだろう。マイクの話です、と。

「マイク。テストテスト。わたしを。私はここよ。話してます。こんにちは、マイクです。私は話してます。私のブログをチェックしてください。」


幼児を持つ親達は教えてくれる。過剰な自意識は成長の段階に見えると。私たちのシステム全体からそれを取り除くのには時間が掛かる。

しかし、最終的には「私は何かを言っているよ」以外の事を言う価値に気付いて、前へ進むのだ。

メディアはメッセージになり得るかもしれないが、メッセージもまたメッセージなのだ。


他人からすれば私は愚かに見えるだろう。あの馬鹿が言っているように、だがそれは美しくもあるのだ。


Tuesday, September 2, 2003

Processing Processing

By Paul Ford

Ftrain.com

http://www.ftrain.com/ProcessingProcessing.html