嫉妬する雑種犬 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006-12-27

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私の乗るボートは29メートルカタマラン船で、ダイビングボートとしては比較的大型で速い船だった。桟橋から眺めると、「SEDUCER(誘惑者)」という巨大な青い文字が喫水線の上にへばりついているのが見えた。それがこの船の名前で、私にはどうもわざとらしい名前に思え……、観光客たちが呑気に記念撮影をしているそばを通るとき不吉な予感がかすめた。

晴れているが、風が強い。船に乗り込むと、クルーが迎えてくれる。ウェルカム、ウェルカム。私は感慨か、うれしさか、もしくは興奮を自分の中に見出そうとするが、何もない。私の心は南極の海のように澄んでいて、どこかに氷山のようなものが突き刺さっている気がするだけだ。しかし、実際にはここはオーストラリアで、私が向かうのはグレートバリアリーフ、長さ2000キロにもわたって延々と続く塁壁、氷山など比較にならないほど巨大なわだかまりである。

私はキャビンに入りざま、ギャリーのカウンターの上に山と積まれているマフィンを反射的に1つ、取る。コックはブロンド女性で、コーヒー紅茶どちら、と問いかけてくる。コーヒー。ついで日本人?という質問。はいそうです。今日、船が揺れるから覚悟しておいてね。私は窓際の席につく。すると誰かが近づいてきて、すかさず握手のため手を差し出してくる。私は相手の顔も見ずにその手を握った。これも反射的に。

「どうも。ガイドのS……です。これから3日間よろしく。」

陽に焼けた肌に、日本人にしては明るすぎる茶色の目。笑顔だが、魚みたいなギザギザの黄色い歯。彼は私の向かいに座って船とダイビングの説明を始める。私は窓の外、水平線の向こうばかり見ていて半分も聞いていない。……では、入ってはいけない場所……スキッパーアダム……裸足で……リーフに到着したら……3本と、ナイト1本……日本人ダイバーはあなた1人……。差し出された書類に記入する。

オープンウォーターを取りたてなんですね。」

と、彼は言った。「それは楽しみだ。」

意味ありげなニヤニヤ笑いを残して去る。私はつい不安を探そうとしてしまうが、それさえも見つからなかった。しかし今、私の心には、数匹の魚が見える。おそらくそれは期待か、もしくは小さな確信のようなものだったか。いつの間にか船が動き出している。私は2階のサンデッキに駆け上がる。風が、足音までを吹き飛ばしていく。もうすでに水着姿になっている醜悪なガイジン女性たちに一瞥をくれてから、開いた席に陣取りレールから身を乗り出す。泡のように笑いがこみ上げてきた。遠ざかっていく港!水しぶき。果てしもなく繰り返される青い三角形。船はスピードを上げつつあり、大きく左右に揺れる。唇を舐めると、もうすでに塩辛い。

私は船のまわり、いたるところで細かい波の先端が風で粉々にされるのを見、それから水平線を、「無限大」を、見た。何が私をこんなにも遠くまで連れてきたのか。いったい何に呼ばれているのか。ある人々は海には感情があると言う。波が高いときは、海が怒っているのだとか。私は自然擬人化したりはしない。だから神話もない。私は自分がいったい何をしたいのかを知らない!