嫉妬する雑種犬 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-01-06

[][]3.ナイトダイビング 3.ナイト・ダイビング - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 3.ナイト・ダイビング - 嫉妬する雑種犬 3.ナイト・ダイビング - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

海の中の世界に、どれだけ複雑で豊かな生命の網目模様があるかは知識として知っているが、水面だけを眺めていればその下には何もないように見える。波という青い図形が永遠にくりかえされるだけで……(それだけでも無限大の広がりがあるのだが)、本当に静かだ。それが夜ともなれば、さらに私たちの意識を超えていることは間違いない。

器材を装備し、真っ暗な水面にライトが当たるのを見たとき、予想していた恐怖がこみ上げてくる……。しかしそれは私の身体に浸透していく過程で、溶けて微かな興奮のしびれに変わった。

S……は私をなぜか必要以上に褒めて、ナイトでもウェイトの量は同じでいいだろうと言った。彼に言わせれば私の浮力調節は「オープンウォーターを取りたてにしてはうますぎる」らしい。私の動きがすべてイメージトレーニングで成り立っているからかもしれない。だが初心者初心者である。

いざ飛び込む段になると、私の心臓は昼間と同じぐらいにまで落ち着いていた。ダイバーたちはみんな1人ずつタンク上部に蛍光に光る目印をつけていて、それが夜光る海洋生物を思わせた。ナイトダイビングにおいては、私たちは巨大なホタルイカである。私は愉快な気分になって派手にエントリーすると、手に持った水中ライトで暗い空に向かって大きく円を描いた。

相変わらず波は荒れていたが、私は無駄に動かないことをおぼえたので平気だった。波に身を任せていればいつシュノーケルに水が入ってくるのかがだいたい予測できるのだ。

「大丈夫ですね?」

とS……が訊いてくる。私はシュノーケルを咥えているので、手でOKサインを出す。

「潜降します。」

私たちは静かに沈み始めた。真っ暗だ。ほかのダイバーの姿はどこにも見えない。ぼうっと浮かび上がっているのは珊瑚や岩。繊細な鉛筆画のようなモノクローム……それをうねりが横切る。私はライトで海底を出鱈目に照らしてみたが、何もない。おそらく舞い上がっていたのだろうと思う。浮力調節は問題なかったが、秩序立てて何かを探せるほど落ち着いてはいなかったのだ。

一方S……は、すぐさま砂に埋もれているヒラメと眠っている赤っぽいカサゴを見つけ、私に見せた。それから怒涛のようにウミガメとの遭遇がはじまる。

1匹目――岩に寄り添って眠っている。

2匹目――巨大な岩礁の割れ目を覗き込むと、そこから音もなく現れ、私たちの目の前を斜め上に向かって通り過ぎた。その近さと言えば、手を伸ばさなくても触れるほど、ヒレの水圧を感じるほどであった。私はそれが暗闇の中にゆっくりと消えていくのを見送るまで、息をしなかった。せっかくのパノラマを泡で無駄にしたくなかったからだ。それとも、単に感動して息を呑んだ、と言うべきだろうか。……当のカメの方は、息をしに水面に上がるところだったのだろう。(あとで聞いた話だが、そのころ水面ではサメが暴れているのが目撃されていて、私はこのときのカメが襲われなかったか心配になった。)

3匹目と4匹目――岩の間で眠っているのを相次いで見つける。

5匹目――何もない平地で、半ば砂に埋もれて眠っている。なぜ、岩に隠れていないのだろう。不安ではないのだろうか。カメにも性格があるのか。いや……。近づいてみてわかった。大きいのだ。甲羅の長さは、すくなくとも私には1メートル以上あるように見えた。ウミガメ寿命については私は知らないが、きっとおそろしく歳をとったカメなのだろう。眠るときでさえ外敵をおそれないことを私たちに主張する余裕を持てるだけの歳を!

それ以降のことは私はあまり憶えていない。サメが夜になると活発になることを知っていて期待したのだが、見ることはできなかった。もしかしたらほんの5メートル向こうを泳いでいたかもしれないが、何しろこの水中ライトの光はとてもか細い。それに気づいてみれば、光る小さなエビたちも、あの名状しがたい珊瑚触手も、見てみたいと思っていたものは何ひとつ見ることができなかった。私はまたもやその感覚自体に、「自分が今、ここにいる」という感覚自体に侵食されていたのだ。もしかしたら感動や、恐怖があったかもしれない。だが……私にとっては、潜ることは自然なことなのだ。私の吐きだす泡は、ごく深いところから自然に湧き上がってくる。夜であれ、昼であれ、私は海底にいる自分自身を見つけることができる……。

キジット後はデッキに寝そべって星を見ていた。日本では考えられないほどたくさんの星が見える。私の目はオリオン座を識別したが、他はわからない。ボートは揺れているが、昼間よりは波が穏やかになってきたようだ。風が冷たい。私は船室に帰ることにする。

その途中でコックの彼女チョコレートケーキを1切れ、私に差し出した。どうやら自分の船室番号を教えてくれる気はないようだ。「揺れるから覚悟しておいて」を言い返してやりたかったのに。

ケーキを食べ終わって電気を消したが、眠れない。どこかのデブ野郎エアコンの設定温度を下げやがったに違いなく、私は冬用のジャケットを着込む羽目になる。

真っ暗な部屋を見渡すと、奇妙な感覚に襲われた。闇の中にぼうっと浮かび上がる私のバッグや服、頭上の電気の消えたライト……それらのモノクロームの影たちは、まさにさっき見た珊瑚や岩の影で、私はいま海底に横たわってそれらを眺めている。私はうねりを感じた。私はウミガメだった。岩も何もない砂の海底で眠っているウミガメだった。

こんなにもはっきりしたヴィジョンが、はたして幻覚と呼べるだろうか?ボートが揺られて心地よい波音をたてていたが、私には世界全体が動いているように感じられた。私は自分が呼吸をしているのが不思議だった。目を見開いて、そのときほんとうにはっきりと、自分が海底にいることを「見た」のだ。

私は不安な気持ちのまま眠りに落ちていく。