嫉妬する雑種犬 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-03-20

[][]5.アウト・オブ・プレイス 5.アウト・オブ・プレイス - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 5.アウト・オブ・プレイス - 嫉妬する雑種犬 5.アウト・オブ・プレイス - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

私自身、ほかならぬこの「私自身」が、グレートバリアリーフにとって脅威となっているという妄想は、認めようにも根拠のないものだった。それどころか、私は自分の実存の中心にある灰色の巨大な氷山が、次第に色様々なサンゴに侵食されていくのを感じていたのである。私の痛みは溶けてなくなったりはしない。それは増殖してテーブル状になったり、脳みそみたいになったり、ショウガ色の藪になったりする。

海は、サンゴ礁に特有の薄い緑とアクアブルーのまだら模様だった。

青白い顔をしておそるおそるマカロニをつついている船酔い組を尻目に食事をさっさと終えてしまうと、私は数人の勇敢な者たちとともに2階のサンデッキから海に飛び込んで遊んだ。仰向けに水面に浮いて青い空を眺めようとしたが、まぶしくて2秒と見ていられない。

船内に上がると、潜るときにはいったいいくつのウェイトをつけているのかと思わせるような太ったスーパーバイザーの男が声をかけてきた。

「あなたは一番に飛び込んだ」

「そうですね」

「イチバン」

「イチバン」

それからフィンとマスクをとってすぐシュノーケリングをはじめる。浅いところにもかなり魚がいる。いや、だからこそ、と言うべきか。私は私がいま上から眺めているこの光景CGなのか実写なのか束の間わからなくなった。私はザトウクジラの潜水を頭に思い描くと、息を止めて水面下5メートルまで潜っていく。魚たちがさっと私を避ける。そのとき私がどう思ったか、またそのとき何を見たかはここで描いて見せることはできないと思う。なぜなら私は水から上がるとその瞬間にすべてを忘れるのだし、もし憶えていたとしても私の筆ではとても無理だ。

私は潮流に流されたりそれを利用したりしながらボートの周りを一周した。一度ウミガメの息継ぎに出っくわすが、私を見るとすぐに逃げてしまう。サンゴの下を覗き込んでみたりもしたが、サメ穴は見つからない。

水の中に最後まで残っていたのはやはり私で、私が上がると船はすぐに動き出した。陽のあたる場所でクルーが立ち働いているのを何気なく眺めていると、S……が近づいてくる。

「かなり深くまで潜っていましたね。」

「はい」

「何かいましたか?」

「……忘れました」

彼は私の言葉に半ば呆気に取られながらも、笑うことはしなかった。

「S……さん」

と私は言う。「なぜ人は海に潜るのでしょうか?」

「さあ……潜れる場所があるからでしょう。」

潜れる場所があるから。つまり、そこに海があるから。

私は満足した。

「聞き忘れていましたが、レンタルの器材で何か不都合はありませんか?」

とS……が訊く。「たとえば、レギュレーターが合わなくて呼吸がしにくいとか。」

「いいえ。どっちみち普段の生活でも息苦しさを感じているのだから、気になりません。」

S……は笑顔で「なるほど。」と言って仕事に戻っていった。

どっちみち普段の生活で「ここは私のいるべきところではない」と常に感じているのだから、本来人間のいるべきではない海の中にいたところで、何ら変わることがない。それなら私は海の中をえらびたい。

私はこの感情がどこから来ているのかを探ってみたとき、自分の実存の深さを知った気がした。それは何万年、何億年の時をさかのぼって湧いてくる原初的恐怖だったのだ。それはらせんを描いて遥かな深みから私の水面までつながっていて、フィンを足と同化させた「魚類人種」である私は、鰓呼吸をしながらどこまでも潜って行ける。