嫉妬する雑種犬 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-11-07下がりすぎなのでage

[][]7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ 7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ - 嫉妬する雑種犬 7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

 朝起きると、今日でこのダイブクルーズも終わりなのだという切なさが私をとらえた。私はまたここに戻ってくるだろうが、それまでは陸に居なければならない。ボートは、コンクリート道路を走るバスなんかよりもよっぽど快適に、海の上をすべるように走っている。

 私は魅惑的なスクランブルエッグソーセージの朝食を片っ端から胃に詰め込んだ。食後にメロン3人前を平らげる。どうやら私は、クルーまでもが船酔いするほどに大揺れしているデッキでポテトチップバリバリ食っているようなジャンク日本人、ということになりそうだ。

 S……が、最後のダイビングについて私に説明しにやってきた。

 「これはあなたの希望次第なのですが」

 と彼は言った。「40メートルぐらいのところに、船……というか小さなボートですが……が沈んでいるレックポイントがあるんですが、どうです?行きますか?」

 「行きます。」

 と私は即答した。

 「OKです。」

 と、彼は黄色い歯を見せて笑った。「では器材の準備を始めてください。」

 私は沈船を実際に見たことはないが、その概念は好きだった。海の中で永遠に塩漬けになっているボート。人々は、沈船を引き上げることは無駄なことだという。なぜなら魚たちがそこに棲みついているし、莫大な費用がかかるからだ。沈んだボート環境の一部になる。そんな概念。「鎮静した破壊」が沈んでいるという概念

 私はすっかり慣れて目をつぶってでもできるようになった器材の準備をした。S……のあとからエントリーする。その瞬間の落下感に恐怖を感じることもなくなった。私はますます海に慣れ親しむようになった。まるで私の血管には海水が流れているようだ。そのうち皮膚までが緑色の鱗に覆われるかもしれない。私はどれほど鰓呼吸に憧れているだろうか!

 S……と潜降をはじめたとき、信じられないことが起こった。私たちは他のダイバーたちとは逆方向に潜降して行ったのだが、そのとき巨大な影がすぐそばを通り過ぎたのだ。威厳……静寂。私はまたもや息をするのを忘れ、レギュレーターの呼吸音もピタリと止んだ。そのときはそれが何かわからなかったのだが、後で聞いたところによると巨大なイーグル・レイで、この近辺で見られることはまれだという。5年来グレートバリアリーフでガイドをしているS……でさえ、初めて見たと言っていた。

 優に3メートルはあるそのエイは、私たちを見ると少し避けるように方向転換をしてから、ゆっくりと遠ざかって行った。尻尾が短くて、背に斑があったかもしれない。そのゆったりした動き、その存在そのものに……私は全身に鳥肌が立つのを感じた。恐怖が電流のように全身に走り、その存在に追いすがって尻尾につかまり、そのままどこまでも運ばれていきたいという衝動は抑えきれないまでになった。しかし残念なことに……人間の脚力では遠ざかっていくエイに追いつくのは無理だった。

 S……が私のフィンを掴み、注意を促した。呼吸音が戻ってくる。潜降しよう、という合図。

 我に返って、前方のドロップオフ深淵の「はてしなく黒に近いブルー」へと吸い込まれていくのを見やった。私たちは白いガレ場の上を滑っていく。

 ボートは、私の深度計によれば水深38メートルの砂地にさかさになって沈んでいた。近くの浅いサンゴ礁で座礁し、ここまで流されたのかもしれない。わたしたちは完璧中世浮力を保って、ボートの横で並んでホバリングしていた。

 それはすばらしかった。それは一種の理想だった。自然と人工の融合、廃線になった線路のような。閉鎖された炭鉱のような。なぜそこに安らぎを見出すのか?わからない。なぜ?私はこのボートから、一つの街全体が海中に沈んでいる様を想像できる。茶色いぬめぬめした藻に覆われて、ウツボが崩れたコンクリートの穴から目を光らせ、シュモクザメの大群がそのまわりをまわっている廃墟……。私たちの住んだ家や私たちの歩いたオフィス街は、まるごとそのまま海中に没することになるだろう。私はなぜかそれが正しいことだという確信をどこかで感じている。それはヴィジョンとして多くの人の夢に出てきたものだが、私ももちろんその中の一人だ。

私は海に関する秘められた知識の一部を手にしたというぼんやりした罪悪感を感じた。

ボートはまるで写真のように沈黙していた。そのエンジン部分、心臓が近くに投げ出されていて、それが死の意識を、私に呼び起こす。魚たちは何事もなかったかのように、無表情にボート死体から出たり入ったりしている。

そんな青ざめた風景の中をしばらく漂ってから、私たちは浅いところへと戻った。事実5分もいなかったに違いない。深いところではエアの消費が早いためだ。しかし、そこに「何かある」限りにおいて、私たちは潜ることをやめないだろう。

まるでフラッシュをたいて暗い青の世界を鮮やかに照らし出すかのように、私は自分自身をとてつもなく明るい光で照らして見ることができた。水中に沈んだ太陽

魚たちがいる。見事にシンクロした動きを見せる銀色の鱗たち。飛び跳ねる小さな光。ゆっくりと深みを横切っていく大型魚。岩の陰で動かずに夜を待っている軟骨魚類。そして果てしなく遠くまで広がっているサンゴ原野。遥か彼方からザトウクジラが私を呼ぶ声を聞いた気がする。

思うに私は、自分の心について間違った考えを抱いてきたのかもしれない。私は南極の海に住むべきではなかったのだ。私の住処はサンゴ礁だった。私が自分を知っているなんてうそだった。私の心にはまだ誰も潜ったことのないポイントが無数に隠れているし、そこに潜ることで私は自分自身を知り、自分自身を忘れていく。私の心は徐々に海と同化して、最後には消えてしまうだろう。

最後の魅せられた一時間が過ぎ去り、全員が船に戻ると、"誘惑者"は陸へと戻るために再び動き出した。私の心を置き去りにして。