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2008-11-06

[]近未来奇想 - 少年のゆくえ (1) 近未来奇想 - 少年のゆくえ (1) - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 近未来奇想 - 少年のゆくえ (1) - 嫉妬する雑種犬 近未来奇想 - 少年のゆくえ (1) - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

夜になってから「空の街」へ行くのは気が引けることだった。しかし僕は行かなければならなかった。

行かなければならないのを知っていた。

消えかけた「KEEP OUT」の貼り紙を横目で見ながら、錆びた鉄のらせん階段をのぼる。

頬に当たる冷やかな風が都会のにおいを運んでいるのが感じられた。裸のらせん構造の隙間からのぞくと、はるか下方でモノレールが通過するところだった。その光は、弱々しく点滅しながら幾重にも重なった鉄骨の向こうに見えなくなっていく。震動が伝わってきて、僕は慌てて手すりをつかむ。

僕は階段をのぼりきったところで足を止める。風は、いまや胸に通るような爽やかさを含んではいず、「空の街」のビールと煙草と汗のむっとするにおいを僕の方に押しやっていた。僕はゴミだらけの床を踏んで、廃材や強化パルプでつくられた「住宅」の間を進んだ。中にいる人を決して起こさないように、ゆっくり慎重に。

いざ来てみるととんでもない圧迫感と恐怖が押し寄せてくる。僕は、もっと小汚く見えるような服装をしてくればよかった、と後悔し始めた。そうしていれば、もしここの住人に姿を見られてもうまくごまかせるかもしれない。

でも、そんな小さな工作はあいつに言わせれば下らないことなのだろう。そんなことは、恐怖を紛らわせるための一種の防衛機構にすぎない。だから、どっちみち、どうやったって同じだ。

僕は吐瀉物の染みを幾度もまたがなければならなかった。

ここはもともとは、単なるビルの屋上だったらしい。だから、誰かが誤って飛び降りてしまったりしないように、街の境界には鉄の柵が設けられている。もっとも、それはちゃんと機能しているだろうか?

僕は死んだように静かな一連のテント群をことさら注意深く通り抜けると、ところどころ腐ってボロボロになった鉄柵を見た。そして、その時まで気づかなかったのだが、ひげをはやしひどく疲れた身なりをした老人が、ビール瓶を片手に柵によりかかり、こちらを見ていることに気がついた。

僕はくるりと振り返って走って逃げたい衝動に駆られたが、かろうじてこらえる。

僕はゆっくりと、その老人に近づいた。

彼は、何も言わない。死んでいるのだろうか、と最初思ったが、その薄青い眼は僕の動きを追って動いているようだ。

僕は立ち止った。

何か言おうと口を開いたが、言葉は出て来ない。「今晩は」と言う必要があるのだろうか、と僕は考えた。それとも「月がきれいですね」だろうか?…

いや、月は出ていない。

とにかく何か言おうと、僕は再び口をあけた。

「“夜は百年も寝かせたワインのように濃い。”」

言ったのは老人だった。「誰の言葉だったのか、おぼえてはいないがね。」

僕は返す言葉がない。

「何しに来た?」

老人は空になったビール瓶をうらめしそうに見やりながら言った。

「知っていますか?…ジェットを…。」

僕の声は夜の闇にささやくようだった。だが老人には聞こえたらしい。

「あの坊主か?」

「知ってるんですね?」

「…何が楽しいのか知らんが、あいつはよくここへやって来てしばらく時間を過ごしよる。あいつがどうかしたのかね?」

彼は疑い深そうに僕を見上げた。彼の鼻には赤黒い大きな染みがあった。

「つかまったんです。」

僕は必要以上に早口になっていた上に、言葉が続かない。

「誰にかね?」

「わかりません。」

「わからない?」

老人は微かに眉をひそめ、考え込むようにその冷たい色の目で僕を見つめた。

「…それで君をよこしたというのかね?」

彼は身なりにしてはずっとしらふだ。それに、もしかしたら、見かけよりずっと若いのかもしれない。

「よこしたというか、僕が自主的に来たんです。あいつが、ここに来たら何かわかるかもしれないって…。」

「何のためにかね?」

老人は今や、まるで僕の心のうちを見透かしているようだった。

「あいつを助けたい。拘束される理由なんて、ないんです。あきらかに不合理なんです。」

老人は、それを聞いてゆっくりと2,3度頷いてみせる。

「…なるほど。だが君は物事を論理的に考えすぎているぞ。」

僕にはそれは唐突な発言のように思えた。

「不合理だというのは理由にはならない。いいか。むしろ理由など要らないのだ。…私の言ってることが分かるかね?」

「ええ、多分…。」

僕は自信がなかった。

「あいつはそれを知っていたのだよ。だからここに来た。社会というものはいつも己に対して酷だということを知っていたからだ。…来たまえ。」

老人は硬いからだを起こして立ち上がると、自分の、三角形の木材の屋根をそなえた「家」へと、足を引きずりながら僕を案内した。

僕がおそるおそる中をのぞくと、老人は隅の方の何か暗がりでごそごそやっている。

ベッドらしいボロ布の傍らには、僕の知らない銘柄の煙草のカラ箱が散らばっていた。それから、古めかしいディスク状の記憶メディアが何枚か。

「あいつにもこれをやったんだ。」

老人が取り出したのは、彼には似合わない、ビジネスマン用みたいな黒い革の鞄。それを開けると、きらきら光る様々な色と形のナイフと、オート拳銃が数挺、きれいにおさまっていた。

僕の頭の中に、捕まる時のジェットの姿が数度、消えかけた蛍光灯みたいにひらめいた。

老人は刃をたたんだクロームのナイフと、拳銃を一丁、僕にさしだす。

「これを持っとけ。」

僕はためらった。

「僕には、…必要ない。できないよ。」

「使わなくても、持っておくんだ。たとえばここのガキどもは、だいたいそいつの刃が出る音を聞いただけで逃げてく。」

彼は諭すように言う。

「……。」

僕は彼の瞳と、差し出されたものを交互に見やった。…

不思議な気分だった。こんなにためらうとは。いやむしろ、

…どちらが正しいのだろうか?

僕は手を出して、それらを受け取った。

「…もしかしてジェットも手ぶらでここに?」

「まさか。」

老人は真剣な表情で僕を見返す。「あいつが持ってたのがあまりにも安物だったからいたたまれなくなったんだ。…度胸は認めるが、お前、ここに丸腰で来るなんて奴ァ、相当バカだよ。」

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2007-11-15

[][]8.エピローグ、スティーブ・アーウィンへのオマージュ 8.エピローグ、スティーブ・アーウィンへのオマージュ - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 8.エピローグ、スティーブ・アーウィンへのオマージュ - 嫉妬する雑種犬 8.エピローグ、スティーブ・アーウィンへのオマージュ - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

私がダイバーとしての初めてのこの魅せられた旅に我を忘れているのとほぼ同じころ、すなわち2006年の9月4日、動物園経営者でもあるオーストラリアのテレビタレント、スティーブ・アーウィン氏が同じようにグレートバリアリーフでのダイビングの途中で亡くなった。死因はアカエイのトゲが胸に刺さったことによる心臓停止だった。

私は死んだのが彼ではなく私だったら良かったのにと思う。それなら誰も悲しまずにすんだ。私は、彼に助けられたワニたちとその親族たちとともに、心からの謝意を述べたい。彼は私に人間も動物なのだということを憶い出させてくれたし、私たちに共通の、自然そのものと触れ合いたいという好奇心のために、その純粋な好奇心のために、どのように自分自身を表現すれば良いかを教えてくれた。彼をごく部分的にしか知らなかったにせよ、他の何万人もの人々と同じく私は彼のささやかな弟子の一人である。

とはいえ私は読者諸氏にダイビングを薦めることはしないでおく。海は魅惑つきせぬ場所ではあるが、深く関わりすぎると、いずれあなたを連れ去るだろうから。

2007-11-07下がりすぎなのでage

[][]7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ 7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ - 嫉妬する雑種犬 7.(最終章)ディープ・ダウン・ビロウ - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

 朝起きると、今日でこのダイブクルーズも終わりなのだという切なさが私をとらえた。私はまたここに戻ってくるだろうが、それまでは陸に居なければならない。ボートは、コンクリートの道路を走るバスなんかよりもよっぽど快適に、海の上をすべるように走っている。

 私は魅惑的なスクランブルエッグとソーセージの朝食を片っ端から胃に詰め込んだ。食後にメロン3人前を平らげる。どうやら私は、クルーまでもが船酔いするほどに大揺れしているデッキでポテトチップをバリバリ食っているようなジャンクな日本人、ということになりそうだ。

 S……が、最後のダイビングについて私に説明しにやってきた。

 「これはあなたの希望次第なのですが」

 と彼は言った。「40メートルぐらいのところに、船……というか小さなボートですが……が沈んでいるレックポイントがあるんですが、どうです?行きますか?」

 「行きます。」

 と私は即答した。

 「OKです。」

 と、彼は黄色い歯を見せて笑った。「では器材の準備を始めてください。」

 私は沈船を実際に見たことはないが、その概念は好きだった。海の中で永遠に塩漬けになっているボート。人々は、沈船を引き上げることは無駄なことだという。なぜなら魚たちがそこに棲みついているし、莫大な費用がかかるからだ。沈んだボートは環境の一部になる。そんな概念。「鎮静した破壊」が沈んでいるという概念。

 私はすっかり慣れて目をつぶってでもできるようになった器材の準備をした。S……のあとからエントリーする。その瞬間の落下感に恐怖を感じることもなくなった。私はますます海に慣れ親しむようになった。まるで私の血管には海水が流れているようだ。そのうち皮膚までが緑色の鱗に覆われるかもしれない。私はどれほど鰓呼吸に憧れているだろうか!

 S……と潜降をはじめたとき、信じられないことが起こった。私たちは他のダイバーたちとは逆方向に潜降して行ったのだが、そのとき巨大な影がすぐそばを通り過ぎたのだ。威厳……静寂。私はまたもや息をするのを忘れ、レギュレーターの呼吸音もピタリと止んだ。そのときはそれが何かわからなかったのだが、後で聞いたところによると巨大なイーグル・レイで、この近辺で見られることはまれだという。5年来グレートバリアリーフでガイドをしているS……でさえ、初めて見たと言っていた。

 優に3メートルはあるそのエイは、私たちを見ると少し避けるように方向転換をしてから、ゆっくりと遠ざかって行った。尻尾が短くて、背に斑があったかもしれない。そのゆったりした動き、その存在そのものに……私は全身に鳥肌が立つのを感じた。恐怖が電流のように全身に走り、その存在に追いすがって尻尾につかまり、そのままどこまでも運ばれていきたいという衝動は抑えきれないまでになった。しかし残念なことに……人間の脚力では遠ざかっていくエイに追いつくのは無理だった。

 S……が私のフィンを掴み、注意を促した。呼吸音が戻ってくる。潜降しよう、という合図。

 我に返って、前方のドロップオフが深淵の「はてしなく黒に近いブルー」へと吸い込まれていくのを見やった。私たちは白いガレ場の上を滑っていく。

 ボートは、私の深度計によれば水深38メートルの砂地にさかさになって沈んでいた。近くの浅いサンゴ礁で座礁し、ここまで流されたのかもしれない。わたしたちは完璧な中世浮力を保って、ボートの横で並んでホバリングしていた。

 それはすばらしかった。それは一種の理想だった。自然と人工の融合、廃線になった線路のような。閉鎖された炭鉱のような。なぜそこに安らぎを見出すのか?わからない。なぜ?私はこのボートから、一つの街全体が海中に沈んでいる様を想像できる。茶色いぬめぬめした藻に覆われて、ウツボが崩れたコンクリートの穴から目を光らせ、シュモクザメの大群がそのまわりをまわっている廃墟……。私たちの住んだ家や私たちの歩いたオフィス街は、まるごとそのまま海中に没することになるだろう。私はなぜかそれが正しいことだという確信をどこかで感じている。それはヴィジョンとして多くの人の夢に出てきたものだが、私ももちろんその中の一人だ。

私は海に関する秘められた知識の一部を手にしたというぼんやりした罪悪感を感じた。

ボートはまるで写真のように沈黙していた。そのエンジン部分、心臓が近くに投げ出されていて、それが死の意識を、私に呼び起こす。魚たちは何事もなかったかのように、無表情にボートの死体から出たり入ったりしている。

そんな青ざめた風景の中をしばらく漂ってから、私たちは浅いところへと戻った。事実5分もいなかったに違いない。深いところではエアの消費が早いためだ。しかし、そこに「何かある」限りにおいて、私たちは潜ることをやめないだろう。

まるでフラッシュをたいて暗い青の世界を鮮やかに照らし出すかのように、私は自分自身をとてつもなく明るい光で照らして見ることができた。水中に沈んだ太陽。

魚たちがいる。見事にシンクロした動きを見せる銀色の鱗たち。飛び跳ねる小さな光。ゆっくりと深みを横切っていく大型魚。岩の陰で動かずに夜を待っている軟骨魚類。そして果てしなく遠くまで広がっているサンゴの原野。遥か彼方からザトウクジラが私を呼ぶ声を聞いた気がする。

思うに私は、自分の心について間違った考えを抱いてきたのかもしれない。私は南極の海に住むべきではなかったのだ。私の住処はサンゴ礁だった。私が自分を知っているなんてうそだった。私の心にはまだ誰も潜ったことのないポイントが無数に隠れているし、そこに潜ることで私は自分自身を知り、自分自身を忘れていく。私の心は徐々に海と同化して、最後には消えてしまうだろう。

最後の魅せられた一時間が過ぎ去り、全員が船に戻ると、"誘惑者"は陸へと戻るために再び動き出した。私の心を置き去りにして。

2007-04-11

[][]6.水中の美=醜とクマノミの生態について 6.水中の美=醜とクマノミの生態について - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 6.水中の美=醜とクマノミの生態について - 嫉妬する雑種犬 6.水中の美=醜とクマノミの生態について - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

 ボートが別のポイントへ移動を終えると、私たちはまた器材をつけて順々に海に飛び込んだ。

イエローフィンバラクーダの群れが見られますよ。」

とS……が言った。

 実を言うと私は、黄色のフィンをつけて潜ればイエローフィンバラクーダの仲間になれると思い込んでいるような馬鹿ダイバーなので、それは聞き捨てならなかった。それから、クマノミもたくさん見られるという。グレートバリアリーフに生息しているクマノミ6種のうちの5種(クラウンレッドアンドブラックピンクバリアリーフスパインチーク)が生息しているらしい。ということはイソギンチャクもたくさんいるわけで、私はそれらに触れないように注意して小さなクマノミを見なければらず、かなり難しい浮力調節になりそうだった。

 風はほとんどなく、波は穏やかで凪いでいる。私たちは、相変わらずわいわいやっている観光客連中の横を音もなく通り抜けて、密かに潜降した。私にはようやく、潜降しながら辺りを見回す余裕が出てきた。50センチほどのハマフエフキが餌をくれないかと私たちにつきまとってくる。しかし私たちの方では、「空揚げにしたらうまそうな魚だ」などと思ってるので、お互いをもの欲しげに見ていることになる。これは奇妙関係だった。

 まず私たちは、水深25メートルのところから聳え立っている巨大なサンゴピラミッドの周囲をぐるぐるとらせんを描いてまわりながら見物する。これは私に、たとえば姫路城のような歴史的建造物を、空中で上に向かってらせん状にまわりながら見物する未来の人々の姿を想像させた。もしくは、水中に沈んだ姫路城を見物するダイバーたち。

若いイエローフィンバラクーダの群れがいる。彼らは潮流に逆らってひとところに留まるように泳ぎながら、みんなしてこちらを見ている。私は、もし自分があの群れの中の一匹だったとしても、何ら不自然なところはない、という感覚に襲われた。こんな浅いところで窒素酔いだろうか。いつか私は、異常に心を打つ光景を目撃してしまったとき、たとえばミンククジラが悠然と私たちのそばを泳ぎ過ぎる様を見たときなど、その背ビレにつかまったままどこかへ行ってしまうかもしれない。そう考えるとなぜか奇妙な安堵感が私の胸を満たした。

 サンゴピラミッドはいたるところぬるぬるした藻に覆われていて、わけのわからないひも状の物体や茶色の海藻を器材に引っ掛けてしまわないよう細心の注意を払いながら、私たちは進んだ。サンゴに穴を開けて棲み、ちょこんと顔だけのぞかせている小さなカエルウオ。そしてクリスマスツリーワームクリスマスツリーワームクリスマスツリーワーム。彼らの鰓冠は美しい青と黄色に彩られているが、その下にある体は想像したくない。ホワイトチップの黒い影が2体、近くを通り過ぎる。巨大で無貌の、高級品のバイカナマコ。つまり……私が言いたいのは、この世界はテレビで紹介されているようにただ美しいだけの世界ではないということだ。ここには触れたら皮膚に水ぶくれのできる刺胞動物や、つつくと紫色の汁を出す軟体動物がいる。砂底は這い回るゴカイだらけで、マンボウの鰓のまわりには無数の寄生虫がくっついている。10歳の少女が必ず欲しがるような美しいタカラガイの貝殻も、水中で生きているときにはナメクジ状の体から出た粘液に何重にも覆われて、サンゴポリプの間で眠っている。

 S……は、クマノミを次々と紹介した。やはり私はイソギンチャクをおそれて浮力調節に手間取ってしまう。クマノミは思っていたよりも小さく、イソギンチャクの奥に潜り込んでしまうので観察するのが難しい。

 あとでS……が教えてくれたことだが、クマノミは最初からイソギンチャクの毒への耐性を持っているわけではないらしい。彼らは幼い頃に意を決してイソギンチャク体当たりをし、痛みを賭けて耐性を得るというのだ。この事実は興味深く思われた。

 そんなことをするのがなぜクマノミだけなのか?他の魚がするようになってもよかったはずではなかったか。彼らはどんな神秘的な遺伝子の声によって、痛みに向かって駆り立てられるのか。一体どこの誰が、そんな代金を自分の家に支払うだろうか。痛みという代金。

 まるで私たちが、外部からの強制力によって労働へと駆り立てられるようである。私が今まで出会ってきた大部分人間は、何の疑問も抱かずに労働を受け入れていた。私たちが働くのも遺伝子の声によってなのだろうか。そうだとしたら、私は人間失格ということになる。なぜなら私がここへ来たのは、労働から逃れるためにほかならないからである。

 私は海が赤や黄色といった明るい色を吸収して青だけになった世界で、ただ一匹イソギンチャクから離れてはるかな深みへと潜っていく小さなクマノミを見た気がした。私は何かあるたび自分を鳥にたとえてきた。どこかのロックバンドの歌詞のように、傷ついた翼でどこまで高く飛べるかが私の人生のすべてだった。しかしいま、私はそれが完全に、決定的に間違っていたことを確信した。……私の人生は魚だったのだ。たったいま、この「いま」から、私の人生はどれだけ深く潜れるかがすべてになった。

 私はかごの鳥などではなかった。かごの鳥は、もしかごのふたが偶然にも開いていたならすぐにも逃げ出すことができる。しかし水槽の魚は。水槽の魚は、もしふたが開いていたとしても、逃げ出せるだろうか?私はそんな絶対的な絶望から、とうてい抜け出すことが不可能な絶望から、どうにか「いま」このサンゴ礁にやってくるだけの冒険をしたのだ。

 私たちがエキジットして、やがてグレートバリアリーフに夜が訪れたが、私はぽつんと一匹、深淵の真闇へと潜降していくクマノミの幻影をまだ見ていた。雲ひとつない空の下でボートゆれる

2007-03-20

[][]5.アウト・オブ・プレイス 5.アウト・オブ・プレイス - 嫉妬する雑種犬 を含むブックマーク はてなブックマーク - 5.アウト・オブ・プレイス - 嫉妬する雑種犬 5.アウト・オブ・プレイス - 嫉妬する雑種犬 のブックマークコメント

私自身、ほかならぬこの「私自身」が、グレートバリアリーフにとって脅威となっているという妄想は、認めようにも根拠のないものだった。それどころか、私は自分の実存の中心にある灰色の巨大な氷山が、次第に色様々なサンゴに侵食されていくのを感じていたのである。私の痛みは溶けてなくなったりはしない。それは増殖してテーブル状になったり、脳みそみたいになったり、ショウガ色の藪になったりする。

海は、サンゴ礁に特有の薄い緑とアクアブルーのまだら模様だった。

青白い顔をしておそるおそるマカロニをつついている船酔い組を尻目に食事をさっさと終えてしまうと、私は数人の勇敢な者たちとともに2階のサンデッキから海に飛び込んで遊んだ。仰向けに水面に浮いて青い空を眺めようとしたが、まぶしくて2秒と見ていられない。

船内に上がると、潜るときにはいったいいくつのウェイトをつけているのかと思わせるような太ったスーパーバイザーの男が声をかけてきた。

「あなたは一番に飛び込んだ」

「そうですね」

「イチバン」

「イチバン」

それからフィンとマスクをとってすぐシュノーケリングをはじめる。浅いところにもかなり魚がいる。いや、だからこそ、と言うべきか。私は私がいま上から眺めているこの光景CGなのか実写なのか束の間わからなくなった。私はザトウクジラの潜水を頭に思い描くと、息を止めて水面下5メートルまで潜っていく。魚たちがさっと私を避ける。そのとき私がどう思ったか、またそのとき何を見たかはここで描いて見せることはできないと思う。なぜなら私は水から上がるとその瞬間にすべてを忘れるのだし、もし憶えていたとしても私の筆ではとても無理だ。

私は潮流に流されたりそれを利用したりしながらボートの周りを一周した。一度ウミガメの息継ぎに出っくわすが、私を見るとすぐに逃げてしまう。サンゴの下を覗き込んでみたりもしたが、サメ穴は見つからない。

水の中に最後まで残っていたのはやはり私で、私が上がると船はすぐに動き出した。陽のあたる場所でクルーが立ち働いているのを何気なく眺めていると、S……が近づいてくる。

「かなり深くまで潜っていましたね。」

「はい」

「何かいましたか?」

「……忘れました」

彼は私の言葉に半ば呆気に取られながらも、笑うことはしなかった。

「S……さん」

と私は言う。「なぜ人は海に潜るのでしょうか?」

「さあ……潜れる場所があるからでしょう。」

潜れる場所があるから。つまり、そこに海があるから。

私は満足した。

「聞き忘れていましたが、レンタルの器材で何か不都合はありませんか?」

とS……が訊く。「たとえば、レギュレーターが合わなくて呼吸がしにくいとか。」

「いいえ。どっちみち普段の生活でも息苦しさを感じているのだから、気になりません。」

S……は笑顔で「なるほど。」と言って仕事に戻っていった。

どっちみち普段の生活で「ここは私のいるべきところではない」と常に感じているのだから、本来人間のいるべきではない海の中にいたところで、何ら変わることがない。それなら私は海の中をえらびたい。

私はこの感情がどこから来ているのかを探ってみたとき、自分の実存の深さを知った気がした。それは何万年、何億年の時をさかのぼって湧いてくる原初的恐怖だったのだ。それはらせんを描いて遥かな深みから私の水面までつながっていて、フィンを足と同化させた「魚類人種」である私は、鰓呼吸をしながらどこまでも潜って行ける。