彼――ひとまずそう呼んでおこう――は自分が物語のなかに生きる人間だと知っていた。それはまるで私たちが物語を読むときのように彼の頭のなかに流れこむ。彼にはたしかに物語の世界に住むひとりの人物としての生活があったが、その一方で、自らが住む世界の物語を――半ば強制的に――読まされていたのだった。彼はその物語の主だった登場人物のいずれでもなかったばかりか、脇役ですらなかった。彼は、彼の住む物語には針の先ほども登場しない人物であって、しかしその物語世界をかたちづくるための――そう、その世界をかたちづくるために欠けてはならない――ひとつの断片であった。
本日は解答編*1。有り体に言って、自分の心情をかたちにするために自分の言葉*2を用いる必然性など全くないのだと思っています。必然性の問題なんかじゃないのは当然なんですけども。
実話と作り話の関係に似ている気がします。
特に目的のない旅行だった。妹を元気づけようという大義名分があるにはあったが、気分的にはただの旅行だ。旅に目的など必要ないのだと彼女は言った。
長嶋有「夜のあぐら」
今までずっと坐って、笑い声をたてて、楽しそうにしてるかと思や、突然いきり立ちやがって!
フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
連中が屍体を運んで来てテントの横、つまり俺が北極印寝袋に眠る場所から30センチも離れていないところに置いたのは、真夜中のことだった。
リチャード・ブローティガン「アメリカの鱒釣り」
おれは目をひらき、部屋の思いがけない明るさにまばたきすると、寝袋の端にできた日だまりにのろのろと片手をのばした。
グレッグ・イーガン「順列都市」
意識は全く新しいものを造ったりするじゃないですか。芸術と同じですよ。画家の絵筆が全て思い通りのストロークで動くわけじゃない。作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思ってもみない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。
舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」
桃色がかったブロンドの髪と透き通るような白い肌を舞台に、くりくりと鳶色の目が踊っている。ガイジンみたいだ。というかガイジンである。人形のように可愛いガイジンの娘さんである。いや、ハーフだろうか?
ヤマグチノボル「ゼロの使い魔」
薄暗い部屋でヘッドホンを装着して、ぽっぺらぺらぺぽっぺっぽ、ぽっぺらぺらぺぽっぺっぽ、ぽっぺらぺらぺぽっぺっぽ、ぺらぺらぽっぺ、ぽーぽーぽー、って音楽で始まる料理番組を見ている。画面では、チキンの香草焼きを拵えていやがるが、ちっとも面白くない。面白くはないけれども、ここまで見たのだから最後まで見ようじゃねぇか、しかし、へっ、私は暇つぶしとしてテレビを見ているというのに、その暇つぶしが暇。
町田康「人間の屑」
戦争中は一度も空襲を受けなかったが、徴用されて来た朝鮮人や人夫らが、落盤に遭って死ぬのをたくさん見た。
中上健次「鳳仙花」
象徴派の大きな弱点は、美学しかもたらさなかったことだ。大きな流派はいずれも、新しい文体、新しい倫理、新しい契約締結条項、新しい一覧表とともに、ものの見方、愛の理解の仕方、処世の仕方などをもたらしたものだ。
アンドレ・ジッド「贋金つかい」
老人の自己紹介の如く彼女を「天使」と言い切ってしまうことに、おれにはためらいがあった。
筒井康隆「エディプスの恋人」
雪が降り出す。ある朝おれは、そのくぐもった音で目を覚ます。雪はテントの上に、柔らかく、ひそやかに降る。
スティーヴ・エリクソン「黒い時計の旅」
みんなはいくつ分かったかな?かな?
今世紀最大の悲哀(本当に悲しい!)を表現し尽くしたこの↓エントリ、無粋ですがいちおうタネ明かしをしておかなければなりません。本日は出題編。
d:id:murashit:20090227#1235750909
中盤などかなり分かりやすかったので感づかれた方も多いかと思いますが、基本的にほとんど引用(一部改変)で作っています。
特に目的のない旅行だった。妹を元気づけようという大義名分があるにはあったが、気分的にはただの旅行だ。旅に目的など必要ないのだと彼女は言った。
文学界新人賞と芥川賞をとった作家の短編から。「群像新人文学賞や野間文芸新人賞と芥川賞」という組み合わせはけっこう多い印象ですが、この組み合わせはあんまりないような気がする。
今までずっと坐って、笑い声をたてて、楽しそうにしてるかと思や、突然いきり立ちやがって!
誰でも知ってる露文学巨匠の、なかでも一番有名なあの作品から。ミーハーです。
連中が屍体を運んで来てテントの横、つまり俺が北極印寝袋に眠る場所から30センチも離れていないところに置いたのは、真夜中のことだった。
いちおうビートニクの作家ということになるのかな。「北極印寝袋」というところがたまりません。僕の大好きな作家ですし、訳者も大好きな方です。
おれは目をひらき、部屋の思いがけない明るさにまばたきすると、寝袋の端にできた日だまりにのろのろと片手をのばした。
あるSF小説の冒頭の一節。好きな人は大好きですよね…
意識は全く新しいものを造ったりするじゃないですか。芸術と同じですよ。画家の絵筆が全て思い通りのストロークで動くわけじゃない。作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思ってもみない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。
昨年刊行されたばかりの本なので記憶に新しい人もいるかも。新潮が初出の作品。
桃色がかったブロンドの髪と透き通るような白い肌を舞台に、くりくりと鳶色の目が踊っている。ガイジンみたいだ。というかガイジンである。人形のように可愛いガイジンの娘さんである。いや、ハーフだろうか?
ずいぶん有名なラノベからです。「桃色がかったブロンドの髪」「鳶色の目」といえば!ピンとくる人は多いはず。もっとラノベ読まなきゃなあ。
薄暗い部屋でヘッドホンを装着して、ぽっぺらぺらぺぽっぺっぽ、ぽっぺらぺらぺぽっぺっぽ、ぽっぺらぺらぺぽっぺっぽ、ぺらぺらぽっぺ、ぽーぽーぽー、って音楽で始まる料理番組を見ている。画面では、チキンの香草焼きを拵えていやがるが、ちっとも面白くない。面白くはないけれども、ここまで見たのだから最後まで見ようじゃねぇか、しかし、へっ、私は暇つぶしとしてテレビを見ているというのに、その暇つぶしが暇。
わかりやすすぎる文体。この人の短編のなかではこれが出てくるヤツがいちばん好きです。
戦争中は一度も空襲を受けなかったが、徴用されて来た朝鮮人や人夫らが、落盤に遭って死ぬのをたくさん見た。
この人は個人的には日本最後の巨匠だと思う、もう亡くなってるけど。顔はブサイクですよね…
象徴派の大きな弱点は、美学しかもたらさなかったことだ。大きな流派はいずれも、新しい文体、新しい倫理、新しい契約締結条項、新しい一覧表とともに、ものの見方、愛の理解の仕方、処世の仕方などをもたらしたものだ。
ノーベル賞も受賞したフランス人。メタフィクションの古典ですってよ。
老人の自己紹介の如く彼女を「天使」と言い切ってしまうことに、おれにはためらいがあった。
そして、メタフィクションといえばこの人。なぜか僕の中のファ文のイメージはこの人になっています。この作品じたいはメタフィクションではないんだけども。
雪が降り出す。ある朝おれは、そのくぐもった音で目を覚ます。雪はテントの上に、柔らかく、ひそやかに降る。
こうしてみるとどこにでもありそうな一節だな…訳は柴田元幸。って全然絞れませんね。
音楽だとサンプリングとかあるじゃないですか、だから文学でももっとやっちゃったらいいと思うんですよね…こういうひけらかしはすごくカッコ悪いし芸がないとはいえ、それが平然とできるくらいでないとイカンと思うのですよ…そこから始まる愛もある…
そうだよ!要は愛だよ!愛!!
おれはスーパーマーケット「フレスコ」に入る。全日本反筒井康隆総連合、通称「全筒連」、またの名を「筒井康隆を先生と呼ぶ会」のアジテーションが聞こえる。「我々はぁ、筒井康隆をぉ、断固ぉ、糾弾するぅ」卵は大丈夫だったはずだが、牛乳はもう一本買っておくべきだろう「岐点はぁ、フロイトをぉ、不当にぃ、援」いつになってもスーパーマーケット内部の商品の配置が覚えられない「ば杉ではぁ、おれ」コンビニエンスストアでもやはり同じことで、仕事柄ときどき栄養ドリンクが必要になるときがあるのだが、いつも店内をうろついて探し回る羽目になる「紅ではぁ、すべての文字がぁ、生まれ持つぅ、権利をぉ」こんな場所にあるスーパーマーケットでさえバレンタインだなんだと騒いでいるなんて「ただの教授でありぃ、一般人のぉ」そういえば真里が最後にチョコレートをくれたのは何年前だっただろう。そろそろおれのことを見直してくれてもいい年だと思うんだが「グ・ヴァニティにおいてはぁ、新潮のぉ、販売価格をぉ、不当にぃ、つり上げることにぃ、成功したがぁ、我々全筒」大倉んちの娘さんなんか最近「であるからこそぉ、我々はぁ、雲形定規の権利のためにぃ、立ち上がる」らしいじゃないか、うちとはえらい違いだ。宮崎クンと会っていたのはもう12年も前になってしまったのか。結局女房にはバレ「てぇ、偏在する視点をぉ、説明することをぉ、抛棄するぅ、筒井」やすい子だったなあ。もうおれに好意を持ってくれる女子社員なんかいやし「ない反吐からぁ、鑑定するなぞという非科」今じゃおれもすっかりいい亭主だ「ンチョーレ」っと、肝心の秋刀魚を忘れるところだった。この時期になっても「ドビ」「ンチョ」「オレド」
野菜売り場のあたりでアジっている男の調子がおかしい。しかしおれはそのままレジを抜けスーパーから出る。実に8分35秒間の出来事。レジを打っていた女性の名前を頭に留めながら。岡田さん。可愛い子だ。
はじめに、神はnandを創造された。nandは否定論理積であって、トートロジーが深淵の面にあり、チューリングマシンがテープの上を動いていた。神は定義した。
not A = A nand A
こうして、否定があった。神は否定を見て、良しとされた。神はnot (A nand B)を論理積と呼び、(not A) nand (not B)を論理和と呼ばれた。演算があり、また演算があった。第一の日である。