安寿土牢

2007-04-23

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http://kill.g.hatena.ne.jp/xx-internet/20070417/p1

上記のコメント欄で「スプリンター」が推薦されていたが、あれは軸がちょっと違う。その辺をコメントしようと思ったが、考えただけでも長くなりそうなのでこちらで書く。ただし記憶のみに頼っているので事実誤認があれば指摘されたし。

スプリンターは作品の構造も作家スポーツの内容も狂っていかない。そのかわり人間的成長も勝利もない。

作品的ゴールは設定されていて「神の領域」と呼ばれている。そこを目指す主人公は齢16にして人格的に優れ、金に不自由せず、将来を期待されている完璧超人として登場する。その完璧超人に足りなかった恋人との出会いからスプリントの世界に入ることになる。

その過程に少年漫画インフレはない。ルールの逸脱もない。だが狂気は確かにある。

スプリントの記録はそう簡単には縮まない。ひとつの自己記録更新と次の更新では、新規の更新のほうが幅が狭い。よってストーリーアキレスと亀のパラドックスのように時間の分割がエスカレートする。徐々に小さくなっていく記録更新幅を得るために「次は何を捨てるのか」がドラマを駆動していく。

苦しそうな表情は表情筋にエネルギーを使っている分無駄である。コーチに示されたテーゼ主人公環境にも外挿される。主人公ストーリーの進行とともに財産経営才能、将来、健康恋人を削り落としていく。このとき主人公中二病属性は削ぎ落とされるために存在したことに気づかされる。「奪わんと欲すればまずは与えるべし」

この原則はライバルにも適用される。ライバルは削るものがなくなりついには廃人となって終盤でドロップアウトする。それは主人公の近い将来を暗示させるが、彼はまだ削りしろが大きい分猶予がある。そして代わりに最終目標であったカールルイス・コンパチが「何かを削る=タイムの短縮」という法則に気がつき、肉体的削りしろが大きいものとして、主人公に関わってくる。

ひとつのトピック現実時間で起こる。ベン・ジョンソンの登場である。(後日判明することだが薬品で)増強された筋肉により彼は世界記録更新する。その筋肉は従来のスプリンターから(というより理想形とされたカールルイスからは)演繹できない到達点であった。それを受けてベンジョンソンコンパチも作中に登場する。そしてこのベンジョンソンコンパチをライバルに弾劾させるのである。「世界記録更新しても神の領域を体験していない」と*1。作品の構造が唯一狂っているとすればここであろう。タイムの問題ではない。何もかもを捨てて「神の領域」に到達できるかどうかが全てなのだ。それは100m走という競技ではもはやない。

そこまでして到達したい「神の領域」とは何か。どう見ても脳内物質の過剰放出による幻覚である。作者はそのように描いている。記録が世界に及ばない主人公コーチが、現役時代に神の領域を経験していることからもそれは明らかだ。そのような個人的体験を「神の領域」として外部に移動し、現世的な全てを振り払って追求する。その構図は何かに似ていやしないだろうか。荒野も彷徨するし。

陸上競技という枠組みで「ブッダ」を描いてしまう小山ゆうにはあまり近寄りしたくない狂気があるとは思うのだがそれはそれでまた別のお話。

*1:結局、現実ベン・ジョンソンもいろいろ犠牲にして記録に到達しているのではあるけれども