安寿土牢

2007-09-12

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私の本職は機械工であるが、私の扱う機械であり、わが主でもあるデウスエクスマキナが順調に稼動中であれば、流しの砥ぎ師として出稼ぎに出ることがある。

「こんちは。御用聞きに伺いましたよ」

「やあ、久しぶりじゃないか。ここんところ姿を見なかったので、別の砥ぎ師さんに頼んでしまったよ」

「そいつは申し訳ありませんでした。するといつもの一振りだけですか。どれどれ、これはまた派手に血を吸ってますな。いやあ、これはホントに一振りだけで十分ですよ旦那。これだけで三日かかります」

「そうかい。そういってまた吹っかけるつもりじゃあるまいね」

「何をおっしゃいます。わたしゃ採算度外な値付けで同業から睨まれてるんですよ」

「ふうん、そんなもんかねぇ。あ、そうだ。さっき言ってた別の砥ぎ師に、こいつも頼んだんだけどね、これがどうにも切れない。というより、実に切れ味よさそうに見えるんだが何も切れない。こいつもどうにかならんかね」

どれ拝見しましょう。と、受け取ったものはアンティーク調の剃刀であった。厚刃にダマスカス鋼特有の縞が浮かび、ぬたりと光っている。二つ折りの鼈甲のハンドルは比較的新しく、数度取り替えて長く使い続けてきたものと思われた。刃にそっと爪を当てる。確かに切れない。だが私はこれが今なお機能していることを知っていた。

「また随分変わったものを入手なさいましたね」

「なんだい、掘り出しものかい?」

「まあそう言ってもようございましょう。オッカムの剃刀ですよ、これは」

「……なんだいそりゃ。ああ、いや『オッカムの剃刀』の講義は結構。知っているよ。だがあれは論理の話だ」

「そう呼ばれる刃物があるんですよ。こいつには、もとよりこの世の何物も切れません」

「そいつぁ文字通り無用の長物だなぁ」

「大概の方にはね。こいつは理(ことわり)を切るんですよ」

「はあ?」

「あたしに出来るかどうかわかりませんが、論より証拠。ちょっとやってみましょう。確か旦那のところにはグレイ干物がありゃしませんでしたっけ」

「ああ、あるよ」

「そいつをちょっとお貸し願えませんかね。ええ、ちょっとでいいんです」

「大枚はたいたんだから試し切りなんかしないでほしいんだが」

「大丈夫ですよ。切れないと申し上げたじゃありませんか」

しぶしぶ出してきた桐箱入りのグレイミイラを前に、私はオッカムの剃刀袈裟懸けに切り下ろす。

「あっ」

叫ぶ客の前に、グレイミイラは既に無く、コヨーテの屍骸と無数の虻が転がっていた。

「ど、どうなってるんだいこりゃ」

「それはですね、こいつで事実から尾ひれはひれを切り取ったんですよ」

「っていうことはなにかい?グレイ干物は犬と虫けらからできてたってことかい」

「いやなに、あたしもよくは知らないんですけどね。噂話ってのはたまに実体化することがあるらしいですよ。こいつは実体の意味を取り出してぶった切るんですわ。だからこんな芸当もできると」

「なるほど……って、どうしてくれるんだい、これ」

「あたしの腕はよくないんで、その箱に入れて蓋をしておけば、なに三日程度で元通りになりますよ」

客の家の軒先を借り三日で仕事を仕上げ、帰途についた私の懐には、代金の替わりとしてオッカムの剃刀が納まっていた。幸いこれは簡単な交渉で済んだ。グレイ干物が元に戻っていたのが効いたのかも知れない。もちろんそれは私が手を抜いたからである。扱い方さえ知っていれば、客の奥方を女と母と鬼に永久に切り分けることも可能なのだが。

オッカムの剃刀市場に出ることは稀である。現存するオッカムの剃刀の殆どはある用途に使われている。事実に紛れ込んだ有害な虚構と戦う裏ファック文芸部員のサブウエポンとしてだ。そして、そのオッカムの剃刀を一般人が手にしていたという事実は、一人の部員の死を意味していた。

objectOobjectO2007/09/12 15:58狼と香辛料は未読。ダマスカスナイフほしい。