安寿土牢

2008-01-19

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全国推定3万5千人程度の「否定から入らないと感想文がかけなかった」皆さん、こんにちは。私もそんなです。半径2クリックぐらいで素人書評の是非、その質・方向性を巡って議論が活発になっている昨今、皆様におかれましてはさぞかし肩身の狭いことだろうとご同情申し上げます。状況はネガティブ書評に厳しく、「全ての読者よ、ポジティブたれ」とクリエーターサイドは高らかにのたまいます。だが敢えて私は、ここに私はDIS書評の素晴らしさについて述べ、同調圧力に屈せぬ「ひょーげんのじゆう」を求めるものであります。

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「愛の対極は無関心」「憎悪は愛の裏返し」などと申します。しかし人間の情動をそのような一軸で評価するのは単純に過ぎます。10年前の私に向かって「アンチ巨人は歪んだ巨人ファン」などという者がいたら、背後から釘をうちつけたバットで殴って昏倒させ、錆びたナイフで腹に「巨人愛」背中に「ナベツネ」と深く刻んで河川敷のフェンスの高い、高い位置に掲げたことでしょう。その人のいう歪んだ愛でもって。哄笑とともに。*1

とまれ、

敢えて単純なその一軸評価の土俵にのってみましょう。愛と憎悪が似ているのはその消費エネルギーの量であります。どちらも罹患するとひどく消耗します。違うのは方向です。愛は秘すもので個人的なもの。憎悪はぶつけるもので共有できるものなのです。もっとも街頭でなんだかはっきりと定まらない概念に対しての愛を高らかに叫ぶ方たちが時折いらっしゃいますが、かような方たちが抱えているのは愛ではなく、他の何かに対する憎悪ではないかという疑いを私はもっています。

とまれ、

憎悪は外向きの力をもつのは間違いありません。それはWEBでのファン・アンチ活動を見てもわかります。あるマイナー作品がメジャーになるときファンの心情はどのようになるでしょうか。そしてアンチは。それが説明するのは彼らの人格に由来するのではなく、愛と憎悪の表れ方がもともとそのようなものなのです。人類全ての性質として、憎悪の共有は悦びです。

さあ、若きスカイウォーカーよ、ともに憎悪の使い方について考えましょう。

2

憎悪も垂れ流すだけでは質の悪い愛となんら変わりません。惚気・愚痴、どちらも聞くほうにとっては単に迷惑です。あなたが憎悪を持つに到った理由を分析し、それを相手に感染させるよう工夫しましょう。これは愛には出来ません。憎悪には愛と同程度のエネルギーがコントロール可能です。作品に対する憎悪をコントロールし、その憎悪を感染させるのを目的とすることにより、あなたの表現力は格段の進歩を遂げることでしょう。あなたの磨きぬいた表現をもって対象作品を切り刻み、解剖標本として衆目に晒しましょう。その作品はあなたからいくばくかの金と時間を奪ったのです。それを元手に満足のいく時間と結果をあなたが得たところで何が悪いのでしょう。対象作品の何がダメで何処がまずいのかを何度も読み直して検証しましょう。それがあなたの書評に説得力を持たせます。憎悪はさらに増すかもしれませんが、いいですか、憎悪の共有は悦びなのです。感染させる対象を思い浮かべ、注意深く腑分けしましょう。感染者に受け入れやすいようにラベリングしましょう。

私たちは憎悪の発生源たる作品を手にしています。そして憎悪の拡散を志します。ではターゲットは何処におきますか。通常は「既読者」に向けて書きます。未読者に手にとってもらうように書くポジディブ書評と違い、ネガティブ書評は既読者の共感を得るために書くものです。ですが究極は「未読者」にターゲットを置きましょう。単体で読ませるものを目指しましょう。未読者があなたの書評を読んで「こんなのに金を出すものか」と思い、古書を入手し、「やっぱりそうだった」と思ってさらに感想をあげる。サイクルは繰り返され、気がつくと作者の観測範囲はネガティブ感想でいっぱいになる。そんな地獄絵図を最終地点とするべきです。

3

ネガティブ書評を書くことを厭わない私たちはいったい何なんでしょうか。破壊者でしょうか、放火魔でしょうか。いいえ単に私たちは捕食者です。食べたものに不満を感じたときは、その不満を満足いくものに変形しているだけです。「レミーのおいしいレストラン」という良質の映画にイーゴという料理評論家が出てきます。私たちは彼のようでありたい。どのような人物であるのかは、この文章が素晴らしい作品を広める意図で書かれたものではないので割愛しますが。私たちは貪欲に自己の満足のみを追求していたいのです。まずいものが絶滅しても一向に構いません。育成は私たちの役割ではありません。創作は宿業で、創作者は草のようにどこにでも生えてきます。

私たちのしていることは無駄でしょうか。はい無駄です。それは人類がこの世に生じたのと同じくらい無駄です。この世の全ての営為、物体の全ての運動には意義がありません。ですから、私たちの行為は無駄ではありません。私の行為の何が無駄かどうかは私が決めます。あなたの行為の何が無駄かも私が決めます。

私たちは作者のためになるでしょうか。いいえ。私たちは純粋に自分のために読み、自分のために書きます。心折れぬ創作者には私たちの書評がもしかすると糧になるかもしれません。が、それは私たちには関係のないことです。作者のために書いてると思うとき、あなたは増上慢と自己欺瞞にどっぷり浸かっているのです。そしてそれはあなたの表現の幅を狭め、質を落とします。

では読者のためになるでしょうか。嫌いなものを激しく批判する我々をフィルターとして利用する読者はいるかもしれません。それもまた私たちには関係のないことです。憎悪を共有しない読者は私たちの目的ではありません。また、フィルターとして機能することを意識したとき、手に取る本は変質して私たちの愉しみを幾許か削ぎ、書くという作業を苦行に変えます。

私たちの書くものは糞でしょうか。イエス、ウンコ。私たちは作品を食べ、書評の形で排泄しています。が、全ての表現は人の頭脳すなわち臓器を経由して外に出るという意味でウンコであり、美しい少女の口から発せられる「愛してる」の言葉も、哲学者の叡智も等しくウンコではあるのです。いわば少女も哲学者も我々皆等しくウンコを摂取しウンコを排泄する糞喰らいなのです。あまつさえ「ツァラトゥストラはこう語った」などと自分の思考する腸内に小さな糞喰らいを構築したり、インターネットなどと世界レベルで電子化されたウンコを投げ合う人類は、極論すると地表を覆い尽くすフラクタルな消化器なのです。もし純粋にして綺麗な情報のみを扱う情報生命体などというものがいたら、私たちのこの有様をみていったいどのような感想を抱くのでしょうか。

「……ユニーク」


参考

http://kill.g.hatena.ne.jp/xx-internet/20080117/p1

*1:今では巨人の凋落とともに巨人ファンは本来の性質である日和見主義を露呈し、私の中のアンチを消滅させました