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ファッキンガム殺人事件 RSSフィード

2007-10-13

人喰いにいたる病

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(承前(id:xx-internet:20070929:p1))

ナノマシン丼と神飯(シェンハン)が如何にして人肉食へ進化するかということについて、若干の説明が必要かもしれない。というわけで、僕が考える漫画的な究極の美食というものについて自己解説しておく。」

究極の肉体的美食 - ナノマシン

「そもそも、美食とは何か。美味い料理とは何か。インフレを内包せざるを得ない料理漫画において、この点はいくら意識してもしすぎることはないと断言できる。究極のところ、食とはどこへ行き着くのか。我々は何を食べ、何を作り、何を求めるのか。このテーマを語らずして料理漫画は語れない。
そうしたとき、一つの思考の添え木となるものが世界保健機構(WHO)の"健康の定義"である。」

身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

健康 - Wikipedia

「この短い憲章は、人間というものを洞察するシンプルかつディープな視点を備えている。肉体的・精神的・社会的、それぞれの尺度から評価することで、人間の状態を多層的に描き出せるのだ。
そこで我々は考える。肉体的にもっとも優れた美食とは何か。一番美味いものとは何か。それに対し、不完全ながら僕が見い出した答えが"ナノマシン"だ。」

「なぜならば、一番美味いものは定義できないからだ。あなたはカレーラーメンのどちらが美味いかを定量的に評価できるだろうか。刺身ステーキはどちらがより優れた料理かを万人が納得する形で示せるか? 答えは否だ。あなたなりの答え、それは好みであって真理ではない。世界人類の中にはラーメンを決して認めず刺身を未開人種の食い物と拒絶する者もいるだろう。甘味・辛味・塩味・酸味・苦味・旨味、それぞれの味そのものに優劣はなく、より好かれやすい味の組み合わせはあっても、これが究極と言い切れる味はない。また、だからこそ食とはこれほどの多様性を持つ。従って単一の料理に究極を求めるのは、最初から破綻した試みと言っても過言ではないだろう。」

「ところが、その試みを実現する答えが空想の中には存在する。 SF 的納得力ガジェットの極北、ナノマシンである。
究極の料理が味の好みの多様性によって否定されるのは早計である。なぜならば、そこには"料理の味は固定である"という思い込みがあるからだ。人の好みが違う。それは事実だ。料理は完成された時点で味が決まっている。それもある程度は事実だ。しかし、その二つから"万人に好まれる料理存在しない"と結論するのは誤りなのだ。なぜ、人が食べた後で料理の味が変わってはいけないのだ?」

ナノマシン丼が仮定する美味とはもはや暴力に等しい。味蕾を直接刺激するナノマシン理論上全ての味を再現できる。味の多様性及び強弱はもはや自由自在、かつ食べる者の成体反応をフィードバックしてより鮮烈な味を動的最適化することで、各人なりの唯一無二の美味を提供する。またナノマシンの役割を複数レイヤに分割することで、味以外にも、匂い、食感、栄養、その他諸々の要素も自由にカスタマイズできる。なかんずく栄養素の動的構成は特筆に価する。これによって人類は未曾有の"どう食べても、いくら食べても体にいい食料"を手に入れ、美食と肥満の数千年来の蜜月を断ち切ったのである。料理の全てはナノマシンであり、もはや完膚なきまでにナノマシンであり、あと強いて言えば見た目の美しさだ。即ちナノマシン丼の料理人とは、工業的・美術的な意味での真のデザイナーである。素晴らしき哉ナノマシン丼。称えよナノマシン丼。」

至高の精神的美食 - 神飯(シェンハン)

「もちろんナノマシン丼はあらかじめ敗北を約束された料理である。理論上最強が事実上最強であることは珍しい。なぜならば、それがお約束というものだからだ。したがってここでは地上最強の肉体的快楽を打ち破る料理が必要だった。」

「そこで我々は考える。肉体的快楽の上位に位置するものは何か。味でなければどこに料理の極北を求めるべきか。
もちろん精神である。言うまでもなく当たり前の話である。勘違いする者が多いが、料理漫画で勝利すべきは美味い料理を作った者ではない。美味いと思わせる料理を作った者である。故郷の鮎を食って号泣する『美味しんぼ』の京極さんを例に取るまでもなく、勝敗を決めるのは審査員の心証である。印象である。受けである。極端な話、道端の虫であろうが汚い海水であろうが、食したものが美味しと叫んで号泣すれば、それは鳳凰の肉であり甘露である。ならば、最強の料理を求める者はどうすべきか。何を狙うべきか。」

「神飯の発想の原点となったのは、食に関する大変有名な言葉だ。」

空腹は最高のソースである。(ソクラテス)

けだし名言である。また、こんな言葉もある。」

泣きながらごはん食べるととてもおいしくない (『カラクリ剣豪伝ムサシロード』エンディングテーマ)

「これまたけだし名言である。当然のことであるが、食事において当人の精神状態は味覚に大きく影響を与える。いわゆる"思い出の味"、"おふくろの味"とは精神によって修飾された美味のことである。最高の美食体験は往々にして幸せ精神状態と対で記憶される。ここを狙えば、食に関する名コラム捏造し放題である。幼い頃に死別した母が最後に焼いてくれたオムレツの味。都会に出てきた若者初任給で食べた回転寿司の味。不器用な父親が一生懸命握ってくれたおむすびの味。五歳の娘が初めて焼いてくれたクッキーの味。白血病で死別した恋人と最後のクリスマスに食べた七面鳥の味。エトセトラエトセトラ。これらと食材・調理法に関する軽いウンチクをミックスすることを多くの連載料理漫画は日常的に行う。いわば料理漫画メインストリートであり覇道である。そして邪道とは往々にして覇道の脇か三万光年先にある。」

「神飯の起源古代中国・宗王朝の神事に遡る。かの国では王の即位に際し罪人に特赦として神飯を振舞う習慣があったという。罪人にしか食べさせないのは、もちろん神飯を喰った者は死ぬからである。その原理はシンプルといえばシンプルだ。すなわち、料理が美味いと徹底的に錯覚させることだ。」

「神飯の儀はまず囚人を選別することから始まる。対象となるのは正しい意味での確信犯冤罪を訴える者、つまり己の非を認めていない罪人である。なぜならば、神飯の前菜牢獄からの解放だからだ。自分を信じて折れなかった者に、まずその正しさを認めてやることから料理は始まる。囚人家族恋人がいれば引き合わせてやる。失った財産があれば戻してやる。事と次第によっては王自らが頭を下げる。これによって対象者の精神は限りなき多幸感に包まれる。
次いで、王は罪人を宮殿に招待し、贅を凝らした極上の料理を振舞う。室内は絢爛豪華な装飾に包まれ、美しき婢(はしため)が下にも置かぬ歓待を尽くし、花は咲き、鳥は歌い、酒池は肉林にして満漢全席である。囚人の興奮は頂点に達する。そこで登場するのが丼に盛られた一杯の飯である。
囚人は訝る。この極楽浄土の如き宴席に似つかわしくない慎ましやかな一杯の飯。その疑問を切り裂くのが一世一代の王の演技である。王は叫ぶ。『これが来たか! 一杯で一国にも匹敵する神の飯!』。そして囚人に神飯が食べられることの幸福を諄々と説く。一瞬喜びに緩急を付けられた囚人は、反動ではちきれんばかりの幸福を感受し、遂に神の飯を口にする。」

「当然のことながら、神飯は大量の向精神薬と味を調えるためだけの劇薬の塊である。食した囚人は一口ごとに正気を失い、目は血走り、脳は溶ける。大抵は三口目あたりで美味すぎて発狂し、やがて内臓を垂らしながら随喜のうちに死んでゆく。"頬が落ちる"とは、神飯に含まれる毒素によって頬肉が溶け落ちる様を表した言葉である。囚人が失禁(男囚ならば射精も)しながら事切れる様を見届け、神飯の儀はしめやかに終わりを告げる。」

「ひとことで言って、神飯とは総合舞台芸術である。料理語源は"ととのえること"だが、食材を整えることだけが料理ではない。むしろ食する者の世界を整えることが至高の料理である。その発想を突き詰めれば、究極のところ、食材はもはやどうでもよい。かくしてナノマシン丼と神飯の戦いは、奇しくも両者共に"料理は素材が命"という常識を打ち砕き、肉体と精神の相克のレベルに辿りつくのである。
"精神など肉体の玩具にすぎず、中枢など末梢の奴隷に過ぎない"。かつてニーチェはそう言った。対して日本坊主は言った。"安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し"と。どちらもけだし名言である。」

そして社会的美食へ - 夢の近親ナノマシン神飯

「肉体的美食と精神的美食は、必ずしも倶に天を戴かぬものではない。ならば肉体的かつ精神的な美食が究極であるのか。その先はないのか。そう考えるのが料理漫画を愛するものの自然な思考であり、そして遂に話題は食人へと辿りつくのである。」

「なぜ食人なのかと問う前に、社会的美食とは何かを説明しておこう。
社会快楽及び社会欲とは、簡単に言えば他者からの承認欲求である。人に認められたい、誰かとつながっていたいという欲望が社会を形成する。僕の母親曰く、"人は一人では生きられない"。けだし名言である。そこから裏返って、社会的承認から得られる快楽を美食と共用する方法はないものだろうか。すぐに思いつくのは、"愛する誰かと食べる食事は美味しい"の応用である。しかしそれは神飯が四千年前に通過した場所だ。更なる社会的美食はないものだろうか。」

「次に僕が考えたのは、万人の賞賛を浴びながら食事をする誰かの光景である。だがしかし、それは美しくないし、やはり神飯の域を出ていない。我々が求めるべきは、もっと窮極的で、ギリギリで、他に類を見ないけだもののような美食なのである。そこに至ったとき、僕の発想は逆転した。社会快楽によって食をブーストするのではなく、社会性そのものを食の対象とすることはできないだろうか。その先にあるのが"社会食人"というテーマである。」

食人は長きに渡り人類社会タブーとして扱われてきた。そのため、そのタブーからの解放による快楽を最高の美食として位置付けた作品は数多い。社会的にもっともやってはいけないことこそが、もっとも社会的に美味しいのではないかという発想。タブーこそは最高のスパイスではないかという発想。その考え方は非常に筋がいい。ただ、そこに多少異なった解釈を施したいと僕は思う。
そもそも、なぜタブーを破ることが快楽につながるのか。第一義には解放感であろう。しかし、それだけではない。思うに、食人快楽自殺快楽に似ている。解放、それは確かに主成分である。だが、それ以上に、自死自虐・自己崩壊、そういったタナトスのもたらす快楽こそがメインではないだろうか。」

「つまるところ、社会的美食の完成形は"取り返しのつかないこと"である。自らの社会性を食べること、圧倒的に何かを失うこと。それこそが究極の美食であると僕は思う。したがって食の対象は自ずから"最も取り返しのつかない何か"となる。かけがえのない恋人がいる者は、かけがえのない恋人を。目の中に入れても痛くない孫がいる者は、目の中に入れても痛くない孫を。自分が最も可愛い者は、最も可愛い自分の一部を。世界人類がすべて愛しい者は、世界人類全てを。その一生に一度の喪失が、ナノマシン丼と神飯に欠けていた素材の概念を補完する。ここに至って我々は肉体的・精神的・社会的美食の極みを目にするのである。
神飯の舞台で、愛する者を、ナノマシンの味付けで食す。持てる限り全てのリソースを投入した、一期一会の究極の宴。世界最強の料理、近親ナノマシン神飯の完成である。」